サッカーは僕の情熱だよ。
情熱を注いでいることでお金を
もらうなんて、すごく不思議だった
ヴィチェンツァ(トップチーム)でのデビュー戦は?
R ―― 地元でのヴェローナ戦。プレシーズンマッチだった。そのあと、やはり、プレシーズンのジェノア戦でプレーしたかな……単にコンディション作りのためのゲームだったけどね。
公式戦のデビューは?
R ―― 83年……いや、82年だったかな。年代はよく覚えていないけど、リーグ最終節のゲームだった。
資料では83年の6月5日になってるね。
R ―― はっきりとは覚えてないけど、確かブレッシャ戦だったんじゃないかな。
ヴィチェンツァでのデビュー戦の相手がブレッシャとは……
運命とでも言うべきかな?
R ―― まさにそうだね。
カルドーニョでプレーしていた時と、ヴィチェンツァでのプレーでは大きな違いがあった?
R ―― 名前の知られているチームでプレーしているということが一番大きな違いだったね。まだ子供だった僕が、相当高いレベルのチームでプレーしているということで、当然、ある種の緊張感は感じていたよ。ただ、大きなチームでプレーできるということは大きな喜びでもあったし、誇りでもあった。
以前は感じなかったようなプレッシャーを感じたということだね。単に“楽しむ”だけのサッカーというわけには行かなくなった……。
R ―― いや、結構、エンジョイしていたよ。ゲームの日が待ち遠しかったくらいだからね。ゲームで自分の力を発揮できることを楽しみにしてたし、それに、観客を楽しませることに喜びを感じていたよ。
観客は多かったの?
R ―― あの頃、ヴィチェンツァのジョヴァニーリ(13〜14歳のカテゴリー)のゲームはいつも満員だったんだ。信じられないような話だろうけど、14歳前後の子供のゲームに多くの人が集まっていたんだよ。僕たちのチームはそれだけ人気があったんだ。今のヴィチェンツァのスタジアムの裏に小さなスタジアムがあって、そこでプレーしていたんだけど、スタンドも、その周辺にも人があふれてたよ。
ということは、トップチームに上がってから目にした観客の数と大差なかったということだね?
R ―― いや、むしろ逆だよ。トップチームの成績は悪かったから、観客は少なかったんだ。下部組織のゲームのほうが観客が多かったくらいだよ。
最初の給料のことを覚えているかい?
R ―― 最初に給料を手にしたのは84−85シーズンの時だった。月給30万リラだったよ。
すごいね! 最初の給料を手にした時、どんな気がした?
R ―― 不思議な気分だったよ。だって、好きなことをした結果、お金をもらったんだからね。サッカーは僕の情熱だよ。情熱を注いでいることでお金をもらうなんて、すごく不思議だった。給料は僕がサッカーをするための必要経費として考えてたね。いつも練習場までスクーターで通っていたから、ガソリン代が結構かかったんだよ(イタリアでは14歳から原付きスクーターに免許なしで乗れる)。もっとも、僕にはガソリン代以外にはお金の必要はなかったんだ。サッカーのことしか考えていなかったから、他に欲しいものなんてなかったし。
毎日、スクーターで練習場に通ってたんだ。
R ―― そうだよ。毎日スクーターだった。特に冬場はきつかったよ。練習場に着く頃には体中が凍りついてしまいそうだったからね。だから、時々はチームメイトのトト・ロンドの車に乗せてもらっていたよ。
プロのサッカー選手になり、
セリエAでプレーすることは
子供の頃からの夢だったんだ
資料によると、83−84シーズンにトップチームで6試合に出場して、1ゴールを記録している。セリエCにおける最初のゴールのことを覚えている?
R ―― あれもブレッシャ戦だったと思うよ。PKでのゴールだった。その前のシーズンは年齢の問題でプリマヴェーラでもトップチームでもプレーできなかったんだよ(注:当時のイタリアサッカー界では16歳未満がトップチームでプレーすることは禁じられていた。現在では規定がだいぶ緩和されてきている)。だから、8月から2月までは全然ゲームに出ることができなかった。プレーするには、83年の2月18日の誕生日を待たなくちゃならなかったんだよ。もっとも、16歳になった直後にケガをしちゃって、結局デビュー戦は6月の最終ゲームになっちゃったんだ。
左足の半月板の損傷だろう?
R ―― そうだよ。40日ぐらい、無駄にしてしまったね。
84−85シーズンは、数字を見る限り、君にとって最高のシーズンになったようだね。29試合に出場して12ゴールを記録。君の大活躍のおかげでヴィチェンツァはセリエBに昇格した。この時点で、「大物になった」とか「成功への道が開けた」なんて思わなかった?
R ―― いや、そんなことは思わなかったよ。ただ、大きな情熱、サッカーをプレーできる喜び、サッカーへの愛だけに生きていたという感じかな。とても穏やかに人生を歩んでいた。頭に描いていた目標はただ1つ。「もっとうまくなる」、ただ、それだけだったんだ。他には何の目的もなかったよ。それでチームが勝てれば満足だった。
それから、85年になるとセリエAのチームがロビー獲得に乗り出してきた。そして、シーズン途中に、フィオレンティーナへの移籍が決まったんだね?
R ―― 新聞には様々な予測記事が載っていたよ。僕自身はどこのチームに行くのかなんてことは全然知らなかったんだ。僕は交渉からは完全に外されていたからね。ただ思うのは、このような噂は選手を惑わすだけだよ。決して選手のためにはならない。常に平静心でプレーし、自分のベストを尽くすのが選手の本分であるべきなんだ。でも、新聞やTVのニュースを目にしたり耳にしたりすると、どうしても集中が切れてしまいがちなんだよ。それは選手にとってはすごく大きな問題だと思う。僕は、幸いにして平静に過ごすことができ、プレーに集中できたけどね。
85年の5月3日、君はフィオレンティーナとの契約書にサインした。フィオレンティーナ行きの決め手となったのは?
R ―― 当時はクラブ側がすべてを決めていたんだ。
選手には契約に関して何の権限もなかったの?
R ―― 何もなかったさ。フィオレンティーナと好条件で話がまとまったからフィオレンティーナに僕を譲ることにした、ただそれだけだよ。それに、僕としても、セリエAのチームならどこでもよかったし。当時はセリエAのチームに入るなんてこと自体、夢みたいな話だったからね。常に「もっとうまくなる」と思いながら前進しようとしていたよ。
セリエAのクラブに入るということは大きな前進だよね。
R ―― もちろんさ。今では15歳や16歳の若者がトップチームに引き上げられることは当たり前のように行われてるけど、当時は、18歳以下の若者がトップチームでプレーすることは滅多にないことだったんだ。しかも、それがビッグクラブなんて、まさに、夢物語だったんだよ。
家族から遠く離れて、知らない町で生活するという不安はなかった?
R ―― (サッカーで生きていくためには)いずれ経験しなくてはならないことだと思ってたよ。知らない町に“飛び込んで”生活する勇気を持つべきだとも考えていた。リスクなしに成功はあり得ないからね。だから、クラブ側からフィオレンティーナ行きを告げられた時、「はい、行きます。やってみます」と答えることができたんだ。ただ眺めているより、リスクを恐れずトライすることのほうが大切だからね。
君の家族は君の決断をどう受け止めたんだい?
R ―― 家族にとってはつらいことだったろうね。普通の家庭でも、兵役で家を離れることはあるけど、それは短期間だからね。でも、僕の場合は“夢の実現”だった。プロのサッカー選手になり、セリエAでプレーすることは子供の頃からの夢だったんだ。そして、まさに、その夢が実現しようとしていたんだから、それを止めるのは無理なことだよ。
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