回 〜 フィレンツェでの挫折、そして復活 〜 (1/2)
ヴィチェンツァでの活躍で、セリエAの名門・フィオレンティーナへ入団が決まったロビー。
まさにスターへの階段を上り始めたその時、
“人生最大のライバル”であるケガが立ちはだかる。
2度の手術、激しい痛み、つらいリハビリ……2年もの間、ロビーは苦しみ続けた。
しかし、ロビーは度重なる困難にもめげずに、
再びまばゆいばかりの光を放ち始めたのである。


インタビュー●高橋在 interview by Ari TAKAHASHI
写真●高橋在、マウリツィオ・ボルサーリ
photo by Ari TAKAHASHI/Maurizio BORSARI

じん帯の損傷は想像以上にひどく、
1年間はボールを蹴れないという
診断だった。僕にとっては、
あまりにも残酷な診断結果だったよ


ロビー、君は85年の5月3日にフィオレンティーナと契約し、そして、事件はその2日後のリミニ戦で起こった。思い出したくないだろうけど、その時のケガについて話してくれないか?

ロベルト・バッジョ(以下R) ―― あの時のことはよく覚えている。鮮明に記憶してるよ。あれはゲーム開始直後だった。その日はものすごく寒くてね。前半3分に僕がゴールを決めて、1−0でリードしたんだ。確か、あの試合は、シーズン終了まで残り5試合の時点での直接対決だったはずだよ。勝ち点1ポイント差でうちが上にいたと思う。あのゲームでリミニに勝てば優勝がグッと近づく、そういった意味合いのゲームだったんだ。僕がゴールを決めてから30秒ぐらい経過した時だった。リミニの選手がボールをキープし始めた。僕はゴールを決めた直後で気分も最高だったよ。そして、その選手を執拗に追ったんだ。そして、スライディングタックルでボールをラインの外にはじき出した。その瞬間、右足に全体重が乗ってしまい、膝を激しくひねってしまったんだ。今でもはっきり覚えてるよ。僕は大声を出してわめきながら地面に横たわった。ナイフが膝に突き刺さったような感じがした。耐えられないほどのすごい痛みで、起き上がることさえできなかった。そのすごい痛みは1分くらい続いたかな。突然、その強い痛みが瞬間的に消えたんだ。その時、「半月板をやっちゃったかな、でもたいしたことはなさそうだ」とも思ったよ。でも、残念ながら、1時間後、膝が腫れ上がっちゃって……。だから、3、4日間は安静にして、その後、練習を再開しようと思ったんだ。

練習場に行って、まずは普通に走ってみた。痛みは感じなかった。「あれ、思ったよりいいな。やっぱり、軽いケガだったんだ」と思ったよ。そして、ボールをもらったんだ。ボールの誘惑に負けてしまったんだね。ボールを蹴った瞬間、変な音がして、また強い痛みが膝に走った。「どうしちゃったんだろう?」と自問自答したさ。それから数週間、安静にしながら、膝の不快感の原因をいろいろと考え、そして4週間悩んだ末、原因究明のために関節内視鏡で診てもらうことにしたんだ。診断の結果は最悪だった。じん帯の損傷は想像以上にひどく、1年間はボールを蹴れないという診断だった。僕にとっては、あまりにも残酷な診断結果だったよ。

それで、膝にメスを入れたのかい?

R ―― そうだよ。きつい状況だったさ。このたぐいのケガをすると95%の選手はプレーを諦めるというのが当たり前だったからね。当時は、膝のケガに対処するような医療器具もなかったし、そういう知識もなかったんだ。イタリアにも膝の手術をできるドクターはいたが、残念ながらケガから復帰できるという保証はまったくなかった。だから、膝をケガした選手の多くは、フランスのサンテティエンヌに行って手術を受けていたんだ。サンテティエンヌにはブスケ教授という、その分野の権威がいたからね。だから、僕もサンテティエンヌに行こうと決心したんだ。ブスケ教授は僕をベッドに横たわらせて、膝に単純な動きをさせた。そして、僕に言ったんだ。「明日手術しよう」ってね。これも僕にとってはきつい宣告だった。なぜかというと、イタリアでの関節内視鏡の診断が間違いであることを願っていたんだよ……。でも、ブスケ教授も僕のケガが重傷であるという診断を下した。もう手術を受けるしかなかったんだ。他の選択はなかった……。しかも、ちょうどその頃、僕と同じように膝をやってしまったせいで現役を引退した選手が3人いたんだ。僕がいい気分でいられるわけがなかったよ。

勇気づけられるようなニュースではないよね……。

R ―― まったくさ。

そうこうしているうちに、君はフィオレンティーナの一員になっていたんだろう?

R ―― そうだよ。当たり前だけど、ヴィチェンツァでの残り5試合はプレーせず、シーズン終了後に膝にメスを入れ、そして、フィオレンティーナに正式に入団したんだ。

手術後のリハビリはきつかった?

R ―― きつかったよ……まず、手術直後の痛みがすごかった。僕は薬にアレルギーがあるから、鎮痛剤とか、その他何種類かの薬が効かない体なんだ。手術では、靭帯がなくなっていたので、頸骨に穴を開けて、近くの腱を通して220針も縫い合わせたんだ。非常に手間のかかる手術だったそうだよ。手術後、この220の縫い目が常にうずいていた。でも、鎮痛剤が飲めないから、痛みをこらえるしかなかったんだ。あの時の痛みは今でもはっきり覚えてるよ。痛みが続いてる間、何も食べず、一睡もできず、痛みに耐えられずに、泣いてばかりいた。そんな風だったから、2週間で12kgも痩せちゃったんだ。退院した後も、食欲はなかったし、夜も寝られなかった。相変わらず、泣いてばかりいたけど、少なくとも家にいられるということは救いだったよ。


周りの人たちは、「もう彼にはチャンスは
ないよ」と言っていたけれど、
僕はそうは思わなかった。他人の“NO”は
僕にとっては“YES”だったんだ

身体の痛みだけでなく、プレーできないという精神的なつらさもあったんじゃない?
それに、もしかしたらこれで選手生活が終わってしまうんじゃないか、という恐怖感もあったのでは?

R ―― 恐怖感もあったけれど、それ以上に、「ピッチに戻る」、「できるだけ早くピッチに復帰する」という欲求のほうが強かったな。焦ったら駄目だと思いつつもね。「良くなって、痛みがなくなること」、それしか頭になかったよ。リハビリは綿密なプログラムで進行してたけど、それでも、その都度、様々な問題が生じていた。膝にアイシングをした状態で、何時間、何カ月過ごしたかわからないくらいだよ。何せ、何かするとすぐに腫れちゃうんだから。膝の腫れはなかなか引かなかった。膝の腫れを見るたびに不安になったものだよ。「筋トレだけでも腫れてくるんだから、もし、走ったりしたらどうなってしまうのか?」と自問自答していたんだ。きつかったさ。ただ、一度として最悪のシナリオを考えたことはなかった。むしろ、その逆だよ。「やがて、この問題が片づく日はきっとやってくる」と自分に言い聞かせていたんだ。

ドクターの見解が否定的であったにもかかわらず?

R ―― そうさ。手術の1年後、状況打開のためにも、何らかの練習方法を見出す必要があったんだ。権威と呼ばれるドクター何人かに指示を仰いだよ。だが、誰も希望を与えてくれるようなアドバイスはくれなかった。「これは君自身の問題だよ。君がリスクを冒したいというなら、君の責任でやりなさい。何か別の問題が起こっても私は責任を取らないからね」。決まって彼らの答えはこうだった……。

手術後、結局、何カ月ぐらいプレーできなかったの?

R ―― 手術を受けたのが5月、そして、翌年の1月まで何もしなかった。練習らしきものはしたけど、あれを練習と呼んでいいかどうかは疑問だな。ジョギング程度だからね。それに、ちょっとしっかりした練習をするたびに、膝に違和感を感じていたんだ。すぐに腫れがひどくなり、痛みが再発するという状態だった。とにかくバランスを崩していたんだと思う。走り方に問題があったのかもしれない。膝を完全には伸ばせない状態だったからね。要するに、常に足を引きずっていたという感じかな。

それはすべてフィレンツェでのことだね?

R ―― そうだよ。

セリエAのクラブに入ったけれど、プレーはまったくできなかったということだね?

R ―― 何にもできなかったさ。事実、フィオレンティーナでの1シーズン目は、1試合にすら出ていない。リハビリ中ということもあったし、チームの練習に合流しても、常に膝に違和感があったからね。監督もあえて僕にプレーさせるなんてリスクは冒したくなかったんだろう。まるで、“カミソリの刃”の上で生活しているみたいだった。痛みはあったし、他にも問題は多かったし、まったく解決のメドがつかなかったんだ。

どの時点で「絶対めげない」と思えるようになったの?

R ―― 「辛抱するんだ。やがて本来持つべきものを持てる日が来るんだ」といつも自分に言い聞かせていたよ。だけど1年が過ぎ、結局、プレーできずに終わった。そして、フィオレンティーナでの2シーズン目、開幕前の合宿に参加したんだ。すべてがうまくいきそうな感じがしてたよ。良くは覚えていないんだけど、1試合か2試合、練習試合でプレーした後、木曜日の練習でドリブル中にフェイントをかけたんだ。その時、膝をひねっちゃって、膝が動かなくなっちゃったんだ。屈伸さえできず、こんな感じだったんだよ(膝を90度曲げて見せる)。動けないから、ロッカールームまで運んでもらって、すぐにドクターに診てもらった。半月板の損傷だった……。

同じ膝?

R ―― そう、右膝だった。つまり、フランスに戻らなきゃいけなくなったわけだ。また、手術さ。

また、ブスケ教授のところ?

R ―― そうだよ。それで、手術後、イタリアに戻ったんだけど、今度は以前よりさらにやっかいな問題を抱えてしまっていた。それは何かというと、最初の手術後、気づかないうちに、膝をかばう走り方をするようになっちゃってたんだ。だが、2回目の手術によって、半月板が全然なくなっちゃったから、関節や脚に別の動きをさせる必要が生じてしまったんだよ。要するに、「一から出直し」だったというわけさ。

その問題から解放されたのはいつ頃?

R ―― (最初の手術から)2年後だった。

君を完全治癒に至らしめたものは何だろうか?

R ―― 「プレーをしたい」という“強い欲望”だろうね。周りの人たちは、「もう彼にはチャンスはないよ」と言っていたけれど、僕はそうは思わなかった。他人の“NO”は僕にとっては“YES”だったんだ。おそらく、これが最も重要なことだったと思う。実際、強くそう感じていたからね。もちろん、辛抱も必要だった。リハビリ、自己犠牲の精神も必要だった。それに、幸いにして、仏教と出会うことができたんだ。仏教は僕の力になってくれた。すごく、すごく、大きな力になってくれた。あの苦しい時代を耐えるということは、ある意味では大きなストレスでもある。すべては鎖で結ばれているんだ。あることがうまくいかないと、すべてが自分の考えている方向とは逆に進むものなんだよ。僕の場合もそうだった。不眠症に悩むのと同時に、ありとあらゆる問題が湧き出てきたんだ。でも、仏教は僕に心の平静をもたらしてくれた。命の活力を見出す手助けをしてくれた。それが僕の人生にとっては基本的なことだったんだ。
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