あらゆる面でミランは強かった。
他のチームに全くスキを
見せなかったんだ
1995年に君はミランに移籍した。
ユーヴェからミランへの移籍はどういった経緯で生まれたんだい?
ロベルト・バッジョ(以下R) ―― 他の移籍と何ら変わりはないよ。ミランが僕の獲得を強く望んでいたんだ。もっとも、あの時点で僕とユーヴェは契約切れという状態ではなかった。もう1年残っていたんだ。でも、ユーヴェは僕との関係を打ち切ろうとしたんだよ。だから、僕もミラン行きを決意したのさ。
ミランに入るというのはそれなりに魅力だったんじゃない?
好きなチームだったんだろう?
R ―― そうだよ。なにしろ、ユーヴェがスクデットを獲る前、3年連続でスクデットを獲ったチームだからね。強いチームだった。ミランの一員としてぜひともスクデットを勝ち獲りたかったさ。そして、望みどおり獲ることができた。
確かにミランに入団したシーズン、ミランは優勝した。君個人としては2年連続でスクデットを手にしたわけだ。
ミランの居心地はどうだった? カペッロとはうまくやっていたの?
R ―― うまくいってたよ。すごく盛り上がったシーズンだった。スタートダッシュに成功して、すぐ首位に立ったから、1年中ほとんどトップを走ったシーズンだった。もちろん、危ない時期もあったよ。でも、あらゆる面でミランは強かった。他のチームに全くスキを見せなかったんだ。
君はそのシーズン、28試合に出場して7ゴールを決めた。
君にとって満足の行く数字だったのかな? あるいは、「もうちょっとできた」という感じかい?
R ―― 人は常に「もっとできた」と思うものだよ。ただ、貴重なゴールを決めることはできたと思っている。特にシーズン終盤のゴールはチームにとって非常に大きなものだったと思う。あのシーズンは、体調も良かったし、満足できたシーズンだったよ。
そして、1996年、イングランドでのヨーロッパ選手権。「バッジョなのかデル・ピエロなのか?」という議論が白熱する。結果、サッキはデル・ピエロを選択、バッジョは代表から外れた。デル・ピエロとバッジョはピッチ内で両立できなかったのだろうか?
R ―― 以前も話したけど、僕とサッキの信頼関係はアメリカW杯で壊れていたんだ。あれ以来、サッキが僕を信頼することはなかった。僕の記憶に間違いがなければ、最後に代表に召集されたのがウディネで行われた対スロヴェニア戦。それ以来、ずっと代表からは外されていたんだ。ヨーロッパ選手権の代表に選ばれなかったのは当然のことさ。
デル・ピエロは“バッジョの後継者”と呼ばれていた。
君の目にデル・ピエロはどのように映っていた?
R ―― 僕のポジションにはゾラがいたよ。アメリカW杯でも一緒にプレーしたゾラがね。僕が代表から外されてからはゾラが僕のポジションでプレーしていたんだ。あの時のレギュラーポジションはゾラのものだった。
ゾラのポジションね……。
R ―― そうさ。いずれにしても、あの頃の代表にはいい選手がたくさんいたよ。イタリアは大会のスタートをうまく切ったんだ。だが、1試合負けて、監督はメンバーを大きくいじったんだ。それが失敗だった。でも、チーム自体は強かったよ。とても強いチームだったと思うな。
ヨーロッパ選手権のメンバーから外されてどんな感じだった? 頭に来た?
R ―― そんなことないよ。予想していたからね。さっき言ったようなこともあって、サッキが僕を召集するとは思っていなかったから。それに、それ以前も2年近く呼ばれてなかったんだよ。だから、スロヴェニア戦は例外だと思っていたね。サッキの筋書きどおりだったんだよ。
大会はTVで観たの?
R ―― 初戦は観なかったけど、それ以外の2試合はTVで観たよ。イタリアにとって芳しくないゲームだけを観たということさ。
その時、どこにいたんだい? バカンス中?
R ―― そう、海辺のリゾートにいたよ。妻や子供と一緒にね。気が向いた時にTVのスイッチを入れていたんだ。当然だろう? W杯とかヨーロッパ選手権が行われていれば、その気がなくても観てしまうものさ。 |