どんな慰めの言葉も、
W杯決勝でPKを外したショックを
和らげることはできないんだ
ボローニャでの復活、そして、代表への復帰。国民が待ち望んだバッジョのアッズーリ復帰。そして、98年の夏のW杯フランス大会。君にとって3度目のW杯だった。フランス大会の思い出を聞かせてくれるかい。
R ―― その前に、ボローニャのことについてもう少し話していいかな。ボローニャでの生活は充実していたし、素晴らしいものだった。毎日毎日がチャレンジだったんだ。まずは、プレーのためのコンディション作りから始めたんだ。その前のシーズン、ほとんどプレーしていなかったから、コンディション的にはベストとは言えない状態だったからね。確かに、練習は十分にしていたよ。でも練習のリズムとゲームのリズムは違うんだ。チームメイトのリズムに適応するには、ゲームでプレーするしかないんだ。僕にとってはチャレンジの連続だった。最初はコンディション作り、そして、次はゴールを決めること、さらに、いいプレーをすること。そして、最後のチャレンジがW杯だったんだ。決して楽なことではなかった。苦労の連続だった。だけど、僕は、目標を1年間追い求め、そして達成したんだ。
W杯フランス大会の初戦、チリ戦は、試合終了5分前に君のPKで追いついて引き分け。カメルーン戦は3−0の楽勝。オーストリア戦では君がアッズーリの2点目となるゴールを決めて勝利。体調としては最高だったんじゃないの?
R ―― 体調は良かった。大会を通じて、肉体的にも精神的にも良い状態だった。大会前、僕はデル・ピエロの控えだったんだ。なぜって?……ともかく、彼がレギュラーとして見なされていたんだ。僕は「必要があれば」という楽な気分で大会に臨んでいた。それが、結果的にはずいぶん出場することになったんだ。ゴールも2本決めた。アシストも記録した。個人的には“いい大会”になったと思っている。ただ、チームとしては残念な形で終わったけどね。3大会連続でPK戦による敗退だった。
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| フランスW杯の初戦、チリ戦に出場したバッジョは終了5分前にPKを決めた |
「デル・ピエロの控え」として大会に臨んだと言ったけど、イタリア国民は、バッジョ派とデル・ピエロ派で真っ二つに分かれていたよね。なぜ、デル・ピエロがスタメンで、バッジョがベンチスタートだったのかな? 例えば、ノルウェー戦ではデル・ピエロがプレーして君はずっとベンチだった。そして、運命のフランス戦でも、デル・ピエロが先発、君は後半の22分にやっとピッチに上がった。イタリア中の誰もが疑問に思っていたよ。「なぜ、マルディーニは最初からバッジョを出さないんだ?」とね。
R ―― (笑いながら)それは、マルディーニに聞いてくれよ。僕にはなぜだかわからないよ。さっきも言ったように、僕の体調は良かったさ。最高だったよ。ただ、マルディーニはデル・ピエロを選択した。そして、結果がああなった。それだけのことさ。まあ、今更どうなるものでもないしね。
あの時、フランスに勝っていれば、イタリアはW杯で優勝できたのでは?
R ―― それは何とも言えないよ。W杯というのはそんなに単純なものではないんだ。W杯には説明のしようがない、いや、理解不可能な何かがあるんだ。次の瞬間に何が起こるか全然予測できないんだよ。あらゆるプレッシャーが襲いかかってくるし、最高の状態で戦い続けるなんてことは不可能に近いね。
フランス戦はPK戦で敗れた。君は幸運にも外さなかった(笑)。
R ―― もうすでに失敗しているからね(笑)。
今回はディ・ビアージョがクロスバーに当てて悲劇の主人公になった。かくして、一度も負けることなく、イタリアは威風堂々とフランスを去った。ところで、ディ・ビアージョを慰めてやったの? 君ならその方面の経験者として適切な言葉が見つかったのでは?
R ―― もちろん、慰めたよ。でも、ああいう状況では慰めの言葉なんて何の意味も持たないものさ。僕の時もそうだった。どんな慰めの言葉も、W杯決勝でPKを外したショックを和らげることはできないんだ。それほど落胆は大きいものなんだよ。慰めの言葉は何の意味も持たないものなんだ。
ということは、ディ・ビアージョも自分自身でショックに立ち向かわなければならなかった。心の痛みと戦うしか方法はなかったということ?
R ―― そうだね。いくら慰めても、それでどうなるということはないんだから。
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