| |
![]() |
1967年10月16日、アルゼンチンの強豪クラブ、エストゥディアンテスはインターコンティネンタルカップ決勝第2戦を戦うため、イングランドのオールド・トラッフォードに乗り込んだ。第1戦で1−0と勝利を収めていたエストゥディアンテスは試合開始直後のフアン・ラモン・ベロンのゴールで先制。トータルスコア2−1で勝利し、見事世界ナンバーワンクラブの栄冠に輝いた。 「エストゥディアンテス史上最高のウイング」と称されたフアン・ラモン・ベロンは、サッカー人生における最も重要なゴールを記録したこの日から約7年6カ月後の1975年3月9日、一人の男の子を授かった。男の子の名前はフアン・セバスティアン。彼はやがて、父親と同じようにプロのサッカー選手としてアルゼンチンのサッカー史に名を残す名選手へと成長を遂げる。 フアン・セバスティアンは運命に導かれるように、父が歩んだ道、父がプレーした聖域へと歩みを進めていった。エストゥディアンテスでプロとしてのスタートを切り、サンプドリア、パルマ、ラツィオを経て、マンチェスター・ユナイテッドへ……。父が世界にその名前を轟かせたオールド・トラッフォードを舞台に2年間プレーした。 だが、彼の心の中にいつも残っていたのはイタリアとの深い絆だった。96年の夏にジェノヴァのサンプドリアに渡ったベロンは、そこで2年間プレーした。その後、パルマで1年プレーし、99年の夏、ラツィオへの移籍を果たし、首都ローマで念願のスクデットを体験した。彼にとってこの経験は何物にも代え難い経験となっていたのである。 チェルシーで過ごした1シーズンを含め、プレミアリーグを舞台に戦った3年間は決して納得のいくものではなかった。実力を正当に評価されない不遇の日々は、いつしか彼の顔から笑みを奪っていったのである。だが、マッシモ・モラッティからの一本の電話によってベロンは再び笑みを取り戻した。インテルからの誘いを受け、ベロンは二つ返事でイタリア行きを決心した。ラツィオでスクデットを獲得したかつてのチームメートであり、大親友でもある新監督のロベルト・マンチーニの下、89年以来のスクデットをインテルにもたらそうという決意を固めたのだ。 |
| 1 / 3 |