本誌記事 WebCALCiO 2002
サブタイトル

早速だけど、統計によると、下部組織に入団した少年が後にイタリア代表になれる確率は実に1/35000だそうだ。すごい確率だよね。

8月16日のクロアチア戦で代表デビューし、85分間プレーした
同じく代表デビューを飾ったチームメートのファルコーネと
クラブで結果を出し、代表定着を狙う

デルヴェッキオ(以下D)― 今、背中に悪寒が走ったよ(笑)。3万5000と言えば、イタリアの小さな町の人口ぐらいだからね。僕は8月16日にリヴォルノでのクロアチア戦で代表デビューを果たした。あの時は、今よりもっとすごい悪寒を感じたよ。ピッチでは舞い上がって、ろくに国歌を歌うこともできなかった。歌詞が全く出てこないほど緊張していたんだ。

8月16日は、君にとって、サッカー人生最高の日になったと言えるんだろう? 代表に招集された時のことをもう少し話してくれないかな?

D ― 招集されることは、イタリアサッカー連盟の秘書であるウンベルト・マリーノ氏から電話で聞いた。最初はマジで信じられなかったよ。サンプからはすでに4人も選出されていた。一つのチームから5人も招集されるなんて、しかもそれが僕だなんて、最初は悪い冗談かと思ったよ。でも、冗談じゃなかった(笑)。すぐに両親や友人に電話をしたよ。その日は練習から帰る車の中で泣いてしまった。涙がこみ上げてきたんだ。今までの苦労を思い出して、感極まったのさ。その日は僕の家の側にある砂浜でパーティーを開いたんだ。僕の初招集を祝うために友人が40人くらい集まってくれたよ。

君はバーリ近郊のバルレッタの出身だよね? どんな少年時代を過ごしたんだい?

D ― 血と汗と涙の少年時代……というのは冗談だよ(笑)。とにかく僕は一風変わった子供だった。家の中でも僕だけが変わり者だったんだ。とてもわんぱくでね。小、中学校では、成績はいつも下から数えたほうが早かった。悪い仲間ともずいぶんつき合ったな。

そんな君を悪の道から救い出したものは?

D ― カルチョだよ。南部出身の悪ガキが経験する典型的なパターンだと思う。

つまり、カッサーノの気持ちも理解できるってこと?

D ― アントニオとは親友なんだ。根は本当にいいやつなんだよ。でも、彼はもっと集団のルールを守らないといけないね。この間、イタリア代表のパリ遠征の時にもこう言ったんだ。「規則ぐらい守れ!」って。その点を直せば、彼は本当の“怪物”になれる。アッズーリの歴史に名を刻むような選手になるだろうね。

故郷バルレッタの話に戻ろうか。本格的にサッカーを始めたのはいつ頃なのかな?

D ― バルレッタの下部組織だよ。アッリエーヴィ(15、16歳のカテゴリー)時代には全国制覇も果たした。でも、その直後にクラブが倒産。優勝した6、7人の仲間と一緒にメルフィに移ったのさ。クラブの倒産は、僕にとってはある意味ラッキーなことだったのかもしれない。バルレッタの倒産の“おかげで”ワンランク上のメルフィに移ることができたんだからね。メルフィでは成長するチャンスをもらった。それまでは、ほとんど本能のままサッカーをしていたんだ。でも、メルフィに移ってからは徐々に知恵を使ったプレーができるようになっていった。もっとも、本当の意味で大人の選手になれたのはここ数年のことだけど……。

順に君の経歴を見ていこうか。1998年夏、君はメルフィを離れてセリエC1のジュリアノーヴァに移籍した。ジュリアノーヴァでの1年目はどうだった?

D ― 僕のサッカー人生の中で最悪のシーズンだった。監督のダッデーリオと衝突して、完全に戦力外扱いさ。あのシーズン、僕はわずか1試合に出場しただけ。それですぐにセリエC2のカストロヴィッラーリに移ることにしたんだ。

状況は好転したのかい?

D ― いや、むしろ悪くなった。カストロヴィッラーリでは試合後、ティフォージから愛車をボコボコにされたこともある。『ルノー』のクリオという車だよ。当時の少ない給料で初めて買った車だったからショックも大きかった。興奮したファンがヘルメットとナイフで武装して、ロッカールームまで来たこともあったな。南部では時々そういうことが起こるんだ。北部出身の人には考えられないことだろうけどね。でも、ピッチの上ではそこそこの成績が残せたと思っている。当時の僕はまだ20歳。その若さで29試合に出場できたんだから上出来だったはずさ。当時のカストロヴィッラーリは若いチームだったけど、残留という大きな目標も達成できたしね。

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