リオデジャネイロのガヴェア地区。心地好い夕暮れ時だが、アチルソンの周囲には緊張感が漂っていた。

  フラメンゴは2000年、栄光の創設105周年を迎えた。しかし、そこには祭りを祝う華やかな雰囲気のかけらもなかった。葬式を翌日に控えたような悲痛な叫びが聞こえてくるだけなのだ。105年の栄光を勝利で祝うために、フラメンゴは巨額の資金を投入し、補強に努めた。おかげで前評判は高かった。カリオカ・リーグをぶっちぎりで制するという予想が大半だった。しかし、初戦を落としたフラメンゴは、2戦、3戦と黒星を重ね、メンガンにあるクラブ事務所内には、しかめっ面と愛想笑いしか存在しなくなってしまったのである。そして、当然の如く、事務所の外では、ファンの怒りの抗議が爆発していた。

  我々とのインタビューの3時間前、アチルソン・マゾッリ・ジ・オリヴェイラは、数キロ離れた練習場内にある更衣室のマッサージベッドの上に横たわっていた。30分ほど体を揉みほぐした後、移籍のための必要書類を受け取るためにクラブ事務所に向かった。しかし、そこにはただ、フロント陣の冷たい視線があるだけだった。憎しみにも似た妬みの視線……。アチルソンは書類を受け取り、そそくさと事務所を後にした。すると、そこには、別の憎しみの視線があった。事務所の出口でサポーターの一群が彼を待ち構えていたのである。半ば暴挙と化したサポーターの一群はアチルソンを取り囲んだ。「裏切り者! 貴様は自分の夢の実現しか考えない裏切り者だ!」とサポーターは口々に彼をなじった。脅しのような言葉が次々と飛び交った。そして、ついに彼の頬はサポーターの平手打ちの犠牲となったのである。

  こうした嫌がらせは6カ月もの間続いたが、その悪夢もこれをもって終焉となるはずである。2000年5月にユヴェントスと交わした契約。それから6カ月間、アチルソンへの“口撃”は止むことがなかったのである。悪夢の始まりは不可解なドーピング疑惑であった。 「あれは僕を憎んでいる者が仕組んだ罠だ」とアチルソンは言う。ドーピング疑惑が去った後、彼を待ち構えていたのは、これまた不可解なフラメンゴとの契約更新……実は、彼の代理人であったマルレーネ・マトス女史が勝手にフラメンゴとの契約を更新してしまったのである。この事件は、マトス女史の違法行為ということで一件落着となったが、コトはそれだけでは終わらなかった。今度はフラメンゴ会長のエジムンド・シウヴァが移籍金の支払いが滞っていることに業を煮やし、過激な発言で世間をあっといわせたのだ。「もし、ユーヴェが400億リラ(約20億円)を払ってくれないのなら、広場に駐車してあるアニェッリ(ユーヴェのオーナー)の車に火をつけてやる」という馬鹿げた発言を口走ってしまったのである。そればかりではない。当時のブラジル代表監督、ルッシェンブルゴも不適切な発言で彼を苦しめた。「俺の言うとおりにしなければ(フラメンゴに残らなければ)、お前のセレソンでの場はないと思え」という恐喝めいた言葉をアチルソンに浴びせたのである。 「脅しに屈しなくてよかった。僕はまだ生きているし、すべてがふっきれた状態でようやくイタリアに行けますからね」とアチルソンは語った。

  このインタビューは、アチルソンの代理人業務を引き継いだジャミットが経営するマーケティング・オフィスで行われた。我々を事務所に招き入れてくれたのはアチルソンの兄、アドニーアスであった。アドニーアスはアチルソンの今後の動きに関してこう説明してくれた。

  「アチルソンの今後の活動のすべてをこの事務所で管理することになっています。我々は彼の将来的な展望、年俸の管理、すべて、この事務所を通じて行うのです。インターネットにアチルソンのホームページを開設したのも我々です」
(注:athirsonline.com

  やがて、アチルソンが事務所に到着した。約束の時間どおりである。そして、驚いたことに彼は品格のあるイタリア語で話し始めたのである。
アチルソン・マゾッリ・ジ・
オリヴェイラ
(Athirson Mazolli de OLIVEIRA)


1977年1月16日リオデジャネイロ生まれ。
下部組織からのフラメンゴ育ちで、1998年には6カ月間サントスへレンタル移籍している。2002年W杯南米予選はすでにA代表として出場している。182cm74kgと左アウトサイドとしては理想的なサイズを誇っている
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