ジーコのプレーを見た時、
「大きくなったらジーコのようにプレーしたい」
と思ったんです


まずは、サッカーを始めた頃の話からスタートしようか。

アチルソン(以下A)── 僕はリオで最も美しいと言われているウルカという地区で生まれました。ポン・ジ・アスーカルの真下にある丘の上の地区です。父はペンションを経営していました。母は昔気質のカラーブリア女で、働き者ですよ。現在、放射線技師をやっていますが、仕事を一生続けるつもりのようです。僕は1977年に4人兄弟の末っ子として生まれました。兄弟全員がサッカー好きですよ。

というと、特に貧しい幼年時代というわけではなかったんだね?

A
── ごく普通の家庭でした。金があり余っていたというわけでもなかったので、好きな服が買えないこともあったし、贅沢はできませんでしたね。テレビもなかったし、もちろん、サッカーシューズを買う余裕もなかったですよ。でも、食べるものに困っていたという経験はありませんでした。

いつ頃、サッカー選手になろうと思ったの?

A
── かなり早かったと思います。5歳の時、バールのTVでブラジル代表のゲームを観たんです。ジーコがプレーしていた頃のセレソンの試合です。“フチボウ・アルチ(芸術的サッカー)”と言われていた頃のセレソンですよ。パオロ・ロッシにやられてしまったけれどね。それ以前は、父からペレやガリンシャの話を耳にタコができるくらい聞かされていたんですよ。それで、ジーコのプレーを見た時、「大きくなったらジーコのようにプレーしたい」と思ったんです。それから先は、常に「いつかプロのサッカー選手になるんだ」と思いこんでいました。もし、サッカー選手になれなかったら、ボール拾いでもいい、ホペイロでもいい、チームドクターでもいい、何かサッカーとつながりがある仕事に就こうと考えていましたね。ともかく、ピッチの周辺で働くことしか頭には無かったんです。

最初に君にサッカーを教えてくれた人は?

A
── 父と兄のアリソンです。アリソンもプロになるつもりだったんです。すごくうまかったんですが、ツイていなかったのか、結局、途中で断念しました。ともかく、この2人が僕の能力を信じてくれたんです。僕はよく学校をサボってサッカーの練習をしていたので、母にはよく怒られていました。でも2人が僕をかばってくれたんです。フラメンゴのセレクションに付き添ってくれたのもアリソンです。



最高の監督に出会うことが
できましたからね。
今度、セレソンを率いるようになった
レオンですよ

フラメンゴのテストは
その場で合格だったでしょう?

A
── そうです。うれしかったですよ。夢が叶ったんですからね。夢のフラメンギスタ(フラメンゴの選手の意味)になれたんですから。ジーコや、ジュニオールや、レナートのファミリーの一員になれたんです。13歳の時でした。コーチにまずフットサルをやるように指導されました。フットサルのチームでは攻撃的ピヴォのポジション、サッカーで言うならセンターフォワードのポジションを任されました。ただ、正直言って、たいしたプレーはできなかったんです。フットサルでは僕のスピードを活かすプレーができなかったんですよ。

そこでサッカーのチームに入ったというわけ?

A
── そのとおりです。16歳の頃、ジュニオーレス(下部組織のユース)のチームでプレーしていましたが、その頃はまだFW(左のウイング)でした。その後、当時のテレ・サンターナ監督が僕をトップチームに引き上げてくれたのです。サンターナは「FWのポジションでは君の運動量と走力が無駄になる」と言って、僕のポジションを後方に下げてくれたんです。

そして、19歳でプロデビューしたんだよね。

A
── あれはアメリカ・ジ・ナタウ戦でした。もう足がガタガタ震えてましたよ。でも、それなりのプレーができたんです。うれしかったですよ。「やった」と思いました。

98年にはサントスへ移籍したけど、格が下がったという感じはしなかった?

A
── いや、そんなことはなかったですよ。父を喜ばすためにサントスに移籍したんですからね。父はサントスの大ファンだったんです。ペレのファンだったんですよ。というのは半分冗談……本当は、ケガが原因だったんです。あの年、ケガをして長期間ピッチから離れたんです。ケガが治ってピッチに復帰したら、ポジションがなくなっていたんですよ。セレソンでもプレーしていたゼ・ロベルトが僕のポジションに居座っていたのです。テレ・サンターナ監督に呼ばれて、「君の出番はほとんどないかもしれない」と言われたんです。その時点で、僕は決断したんです。サントスに行こう、とね。

君の選択に間違いはなかった?

A
── そうですね。何よりも、最高の監督に出会うことができましたからね。今度、セレソンを率いるようになったレオンですよ。彼の下で多くのことを学びました。いかにマークするか、いかにカバーリングするかという点をね。レオンが僕をバランスの取れた選手、攻撃も守備もできる選手に育て上げてくれたんです。

そして、再び、フラメンゴでプレーすることになったんだよね。

A
── 今度はチームの軸としてフラメンゴでプレーすることができました。この2年間、コパ・メルコスールで優勝、さらに、カリオカ・リーグでは2度も優勝しました。特にリーグ戦では僕自身12ゴールも決めたんですよ。最高のシーズンでしたね。
ビアンコネーロ(白黒)のシャツを身に付けてプレーするアチルソン。もっとも、これは98年のサントス時代
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