本誌記事 WebCALCiO 2002

ワールドカップ

ラジルでは、セレソンへの熱狂度が日増しに高まってきている。どうやら「今度のW杯の優勝候補筆頭はブラジルだ」って見方が多いみたいだね。各国の代表監督も、そんな趣旨のコメントを残してるみたいだ。イタリアのマルチェッロ・リッピ監督だって、「ブラジルは最強だ」と常に言っているよね。でも、それについて僕は何と答えるべきなのか分からないんだ。もちろん、すべての人々がセレソンのことを尊敬と称賛の対象として見てくれることはうれしい。要するにセレソンを好きだってことだろうからね。それに、自分がその一員であることに大きな誇りを感じてもいる。

ただ、うれしかったり光栄だと思っている一方で、そうした評価が僕らにとって非常に危険なものだってことも感じているんだ。過去、優勝候補と言われたブラジル代表が、どれだけW杯で悔しい思いをしてきたことか!

僕の生まれる前のことだけれど、1950年大会での信じられない敗戦のことは、ファベーラの年寄り連中から何度も何度も聞かされてきた。あの大会で、セレソンはホーム・マラカナンでウルグアイ代表に不覚を取り、地元での優勝を逃したんだ。フラメンゴの一員としてマラカナンでプレーしていた時に、不意にその敗戦を思い出してぞっとしたことがある。

82年スペイン大会、史上最強と言われたセレソンはイタリアに足をすくわれた

それから、82年スペイン大会でイタリアに敗れた史上最強のセレソンのこともよく話題になる。僕はまだ1歳にもならない頃のことだったから、もちろん何も覚えていないけどね。それでも、当時のブラジル代表は、ジーコ、ジュニオール、ソクラテス、ファルカン、エデルを擁したまさに伝説のチームだった。だから、ブラジルとの試合でハットトリックを決め、彼らを敗退に追い込んだパオロ・ロッシの名は、今でもブラジルのサッカー史の中で“最悪の思い出”とともに記憶されているんだ。

何が言いたいかと言うと、優勝候補に挙げられている時こそ、最大限の注意が必要だってことだよ。大会前の評価に溺れることなく、謙虚さを保ち、集中して開幕を迎えなきゃいけないんだ。僕は、そのことをここイタリアで学んだ。そして、ヨーロッパでプレーするセレソンのチームメートたちも、そのことをちゃんと理解しているはずさ。幸運なことに、現在のチームには、カフーやロベルト・カルロス、ロナウドのような経験豊富な選手が多い。彼らは、あらゆる状況に対処する術を身に付けている頼もしい仲間なんだ。とにかく、W杯では、どんな相手だって過小評価しちゃいけない。油断すると、思わぬ所で足をすくわれる危険性があるんだ。


僕とマンチーニ監督

賛に対して、手放しで喜ぶことはできないって言ったばかりなんだけど、インテルでの僕の“師匠”であるロベルト・マンチーニ監督が、セレソンを誉めてくれるのは本当にうれしいんだ。彼のことは、監督としてすごく尊敬している。彼からいろんな面でのアドバイスをもらえるのはすごく大きなことさ。

フィオレンティーナ時代に実績のないアドリアーノをレンタルで獲得し、チームの命運を委ねたマンチーニ。 インテルで再会したこの2人の間には、非常に強い信頼関係が存在している

彼は、現役時代の彼とイタリア代表の“奇妙な関係”について話してくれたんだ。彼は偉大なカンピオーネだったのに、当時の代表監督と行き違いがあったせいで94年のアメリカW杯に出場できなかった。今でもそのことを悔やんでいるらしい。僕は今まで、常に監督との関係を大切にしてきたつもりだ。幸いにして、プランデッリやマンチーニが監督だったから、深刻な問題に出くわすこともなく、親子のような関係を築くことができた。もちろん、時には監督の叱責に納得できなかったり、指示を聞き入れたくないこともあるよ。だって、選手にとってサッカーは楽しむためのものだからね。だけど、監督はチームの秩序と規律を保つのが仕事。つまり、時に衝突するのはやむを得ないってことさ。サッカー選手というのは、調子の良し悪しに関わらず、常にピッチに上がりたい生き物なんだ。監督は、当然のことなんだけど、一選手よりもチームのことを優先して考えなくてはいけない。もちろん、彼らの苦労も分かるよ。でも、どうしても彼らの決断を受け入れる気持ちになれない時だってあるんだ。

マンチーニ監督の良いところ? やはり第一に挙げるべきなのは、選手との対話を重んじるところだろうね。解決策を探る時に、僕らとしっかりと議論してくれるんだ。だから、その決定がどうであれ、その後にしこりが残るようなことは一切ない。しかし、ザッケローニ監督とは全く相性が合わなかったな。ザッケローニが偉大な指揮官であることは分かっているけど……だけど、相性が合わなかったと言うしかないよ。僕がマンチーニ監督を気に入っているのは、彼が僕に何を求めているのかをしっかりと説明してくれるから。彼はインテルの監督に就任してからというもの、僕とマーティンスの指導に多くの時間を費やしてくれた。彼からは、FWとしてのテクニックだけじゃなく、いろんなことを学んだよ。彼は現役時代、偉大なFWだった。だからこそ、彼は僕らFWの気持ちを完璧に理解してくれるのさ。

01年夏、フラメンゴからインテルに加入したアドリアーノにとって、イタリアでの初めての監督はアルゼンチン人のクーペルだった。この時期のインテルのFW陣はヴィエリ、ロナウド、レコーバ、カロンがレギュラー争いをしており、ヨーロッパでの経験のなかったアドリアーノに多くの出場機会が与えられることはなかった。1月、アドリアーノの実力を見抜いたマンチーニの強い要望により、フィオレンティーナへのレンタル移籍が決定。イタリアでのアドリアーノの活躍は、フィレンツェで始まったと言える。ただし、クラブ消滅の危機に瀕していたヴィオラに長く留まることはできず、02年夏にはパルマへと移籍。パルマではムトゥ、中田を両脇に従えてゴールを量産した。プランデッリが採用した「アドリアーノに得点させる」ための3トップが見事にはまった形だ。パルマでの1年半で十分な実績を積んだアドリアーノは、満を持してインテルへと復帰。ザッケローニ監督の下での半年間は、多すぎる戦術的制約を課されて苦しんだが、それでも得点だけはきっちりと挙げて見せた。そして04−05シーズン、マンチーニ監督と再会したアドリアーノは、“インテルの皇帝”と呼ばれるに至ったのである。
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