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ウェンブレーを世界のサッカーの聖地と言うなら、サン・シーロは少なくともイタリア人にとっては、カルチョの殿堂である。イタリア人のサッカー選手なら誰でも、この地でプレーしたことを一生の思い出に、そしてプロとしての誇りにするはずだ。 カルチョの殿堂、サン・シーロが建設されたのは今から75年前。ミランの創設者の一人であり、当時のミランの会長だったピエロ・ピレッリの発案により建設されたものである。もし、ピエロ・ピレッリが今でも生きており、ヴィエリのユニフォームのピレッリの文字を目にしたらなんと言うか、興味深いところだ(インテルのメインスポンサー『PIRELLI』は、ピエロ・ピレッリが作った会社)。 サッカーの歴史を振り返ると、第二次世界対戦が完全に終結する48年まで、サン・シーロはミラン専用のスタジアムとして使用されていた。カッチャヴィーティ(ドライバーの意味、ミラン・ファンの大多数が労働者階級だったことからミラン・ファンを“ねじ回し”と呼んでいた)の心の拠り所、それがサン・シーロだったのだ。 サン・シーロのこけら落としは26年9月19日のミランvsインテル(3−6でインテルの勝利)で、ベルガモの伯爵がオープニングのテープカットをし、1万人の観客を集めて行われたと記されている。“1926年”、それはまさにファシズムの時代だった。サン・シーロはファシズムの尊厳が損なわれないようにと、そのすべてに当時の建築技術が投入された建造物だったのである。 そのサン・シーロにとって最初の“栄冠”は、34年W杯イタリア大会。準決勝のイタリアvsオーストリアがここで行われ、グアイータのゴールでイタリアは勝利をモノにし、決勝に進んだのだ。当時の新聞は、サン・シーロを「近代文明とイタリア人の才気が作り出したスタジアム。スタジアムは、ファシズムの国民と激しい生命力を持った選手で揺れ動いた」と表現した。このプロパガンダを認めるなら、ビスカルディの能書きも再評価せねばならないだろう(注:アルド・ビスカルディは“Processo del lunedi”〈月曜の裁判の意味〉というサッカー番組のキャスター。この番組では評論家が集まって、延々と日曜日の試合の出来事を裁く)。
スタジアム建設に選ばれたのはミラノの西側で、当時は、人口が集中している地域からかなり離れた、広い空地と深い霧しかない場所だった。もちろん、見本市会場のある現在のように、西の環状道路から簡単に行ける便利な場所ではなかった。ただし、現在その存続が問題となっている競馬場はその時すでに存在しており、いわゆるスポーツ公園の初期的形態は整いつつあったと言える。85年の大雪で、積もった雪の重さに耐えきれず崩落してしまったが、スポーツ館と呼ばれる建物もあった。ところで、崩落(落下)といえば最近、サン・シーロでは悲惨な転落事故が起こっていることも忘れてはならない。今シーズンのUEFAカップで、22歳のルーカ・ヴォルピーニがバランスを崩して15メートル下に落下した事件や、スクーターが3階スタンドから落とされた事件などである。 |
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