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ジャンニ・アニェッリが父に手を引かれて初めてサッカー場を訪れたのは、わずか4歳の時。その時の試合は、“カモシカ”の異名を取り、ユヴェントスで42試合にプレーして50ゴールを決めたハンガリー人ストライカー、フェレンツ・ヒルツァーのセリエAデビュー戦でもあった。カルチョに初めて接したその瞬間から、アニェッリは“カンピオーネから離れられない”人生を運命づけられていたのかもしれない。 カンピオーネと言えば、時に喧嘩っ早く、時にはボスの言葉にさえ耳を傾けない存在である。それでも、アニェッリはカンピオーネを愛し続け、カンピオーネを買い集めようとした。カンピオーネになることを予見して“カンピオーネの原石”を手にすることすらあった。間違いなく、彼には選手の隠された才能を見る目があった。14世紀から18世紀までマントヴァを支配した芸術愛好一家のゴンザーガ家が、若手の画家を招き彼らに巨匠への道を開いたように、アニェッリは無名の選手の素質を見抜き、必ずと言っていいほどその才能を開花させた。 アニェッリは天才を好んだ。だからといって、天才特有の気紛れまで認めていたわけではない。アニェッリは、芸術やファンタジーアをこよなく愛する反面、企業リーダーとして厳しい現実主義者という側面も持ち合わせていた。規律とヒエラルキーを厳守することが彼の基本的姿勢だった。 彼が規律を重んじた一つの例として、“オマール・シボリ事件”が挙げられる。アニェッリはシボリの才能に心酔していた。カンピオーネを愛すアニェッリにとって、天才シボリは崇高な存在だった。しかし同時に、シボリはアニェッリを悩ませる存在であり、シボリについて語る際、彼の口からはしばしば“悪徳”という言葉がついて出た。アニェッリは、シボリの中に、“不義の才気”を見出していたのだ。アニェッリは、当時の監督エリベルト・エレーラの掲げるチームサッカーに、“悪徳の天才”シボリが馴染めるはずはないと感じていた。その予感どおり、シボリとエレーラがぶつかり合うことも少なくなかった。エレーラと口論するたびに、悪賢いアルゼンチン人、オマール・シボリは、「監督を取るのか、俺を取るのか?」と脅しをかけ、最終的には「エレーラを取るのなら、俺が出ていく」とアニェッリに最終決断を突きつけた。シボリには、「アニェッリは絶対に自分を必要としているはず」という確信があったのだ。一方のエレーラは、「私は選手一人を特別扱いすることはできない。それが無理なら私が出ていく」と言って抗戦した。 二人の関係が修復不可能な状態になった時、アニェッリはシボリを呼んで次のように告げた。「親愛なるオマール、私がどれほど君のことを愛しているか、君もわかっているだろう。だが、エレーラは君のボスだ。私はボスに逆らった者を認めるわけにはいかない」。結局、アニェッリはシボリ放出に踏み切った。これは、例えばFIAT社内で部課長クラスと部下の間でトラブルが生じた場合に部下を叱りつけるのと同じことで、これこそアニェッリが抱いていた、あるべき組織像だったのだ。そこには、たとえ自分が溺愛したカンピオーネであっても、組織の害となれば排除するという強い意志があった。 |
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