若き日のジャンニ・アニェッリ。
幼少の頃から偉大な選手に慣れ親しんでいた彼は、生涯、カンピオーネたちに魅せられ続けた。時には、“カンピオーネの原石”を手にすることさえあった
 すでに述べたとおり、アニェッリは選手の才能を見抜く能力に長けていた。1955年、ジャンニ・アニェッリは仕事の都合でポルトガルのリスボンを訪れた。ポルトガルvsスウェーデンが行われると知ったアニェッリは、喜び勇んでスタジアムに駆けつけた。そこで彼は、身体は小さいが俊敏なスウェーデン人ストライカーを目にした。トリノに戻ったアニェッリは、当時の監督サンドロ・プッポを呼んでこう伝えたという。「いい素材を持った若いストライカーを見つけた。スウェーデン人で、クルト・ハムリンという選手だ。調べてみてくれ」。

 プッポは「またボスの気紛れが始まった」と思い、その数日後には「ユヴェントスでは使えそうもないですよ」とアニェッリに報告した。だが、すべてを見透かしていたかのように、アニェッリはプッポに対し優しい口調で言った。「私が君の立場にいたら、すぐにでも現場に赴いて生の情報を持って来るんだが……」。そして、その数日後、プッポは前言を撤回し、アニェッリにこう伝えなければならなかった。「会長のおっしゃるとおりでした。私が間違っていました」。結局、ビアンコネーロのシャツを身につけたクルト・ハムリンは、セリエA初シーズン、23試合に出場し8ゴールを記録、アニェッリが見抜いたとおりの働きを見せた。

 アニェッリはフェアプレーをモットーにする男であった。ユヴェントスが世紀のカンピオーネを獲得できなかったのも、彼にフェアプレー精神があったからこそだった。グンナー・ノルダール、すなわち1950年代に“ミランの黄金時代”を築き上げたストライカーは、実はユーヴェが獲得するはずの選手だった。しかし、ノルダールがユーヴェとの契約書にサインする直前、デンマーク人選手プローガー獲得の際に――プローガーは本来ミランに入団するはずだった――ユーヴェ・フロントが不正を行ったことが判明した。アニェッリはその罪を償うために、ノルダールとの契約を放棄し、その契約権をミランに譲ったのである。

 ユーヴェが獲得したプローガーは、全くの期待外れに終わり、一方、ミランに譲ったノルダールは、225ゴールを記録し“ミランの黄金時代”に貢献した。フェアプレーを重んじたアニェッリにとって、悔いが残るカルチョメルカートだったに違いない。しかし、メルカートでさえフェアプレーで戦うことを選んだのは、アニェッリ自身だった。そしてこの姿勢こそが、ユヴェントスをユヴェントスたらしめていた“品格”だった。しかし、彼がユーヴェの会長としての実務から遠ざかった時点で、残念ながらユーヴェの“品格”は色あせてしまった。

 ミシェル・プラティニ獲得に最も積極的だったのはアニェッリ自身であった。82年の夏、信頼すべきパートナー、ボニペルティ会長は、2年連続のスクデット獲得に貢献したアイルランド人リアム・ブレイディーを放出し、ポーランド人選手ボニエクを獲得した。その時点で、ボニペルティはボニエク以外の外国人選手を獲得する必要性を感じていなかった。だが、アニェッリはオーナーの特権を行使して、プラティニ獲得に乗り出した。

 ユヴェントス入団直後のプラティニは苦戦を強いられた。不振の原因は恥骨炎だけではなかった。「フリーノにプレーメイクさせるためにプラティニを買ったわけではない」と当時のアニェッリは不満を漏らしたそうだが、テクニックも気品もないジュゼッペ・フリーノがレジスタとしてプレーしている図に耐えられなかったのかもしれない。何より、プラティニの持つある種の高貴さにアニェッリは魅せられていたのである。

 シボリに対しては毅然とした態度で臨んだアニェッリだったが、プラティニに対しては愛情優先で接していた。いや、シボリと接する時と比較すると、より心理的で論理的に行動したと言うべきかもしれない。入団当時のプラティニはサッカーの考え方がまだフランス的だった。彼には、当時の監督トラパットーニが抱いていたディフェンシブなサッカーがどうしても理解できなかったのだ。だが、賢明なプラティニは、戦術面での不満を監督にぶちまける代わりに、自分が理想とするサッカーをアニェッリに伝えた。そんなプラティニに対し、アニェッリは最大限の気を遣った。後に、ドイツ人レーサー、ミヒャエル・シューマッハーに賛辞を贈る際には、わざわざプラティニの名前を例に出してもいる。「本物の男は決して愚痴を口にしない。シューマッハーがそうだよ。マシーンが故障したからといって、マシーンへの不満を口にしたりはしない。プラティニも然り。自分が望んだようにプレーできなくとも、彼は監督への不満を決して口にしなかった」。

アニェッリが、“品格”を持つ高潔な人間だったからこそデル・ピエロも“お母さんっ子”という愛称を受け入れた
 結局、アニェッリの人生において、プラティニを超える選手は一人も現れなかった。確かに、「ロベルト・バッジョがプラティニの後継者だ」と断言する者も、「デル・ピエロこそプラティニの再来だ」と主張する者もいた。だが、ロビーにしてもアレックスにしても、プレー面でプラティニを彷彿とさせることはあったが、アニェッリの興味を誘うような刺激的な人間性の持ち主ではなかった。アニェッリは常日頃から彼らの人間性に物足りなさを感じていた。だからこそ、ロビーに対して“ずぶ濡れの野ウサギ”、そしてアレックスに対して“お母さんっ子”という侮辱的とも言える愛称を生み出したのだ。もし、アニェッリ以外の人間にこのようなニックネームをつけられたとしたら、ロビーもアレックスも猛烈に反発したことだろう。それが教養ある高潔な文化人アニェッリの言葉だったからこそ、バッジョもデル・ピエロも微笑さえ浮かべてその愛称を受け入れたのだ。つまり、彼だけに許された発言権があったのである。

 公式な場でも非公式な場でも、ジャンニ・アニェッリはユヴェントスの象徴であり、ユヴェントスの“品格”を象徴していた。ユーヴェの象徴である以上、権力と結びつけられるのがカルチョ界の“常識”である。しかし、アニェッリだけは例外であった。アニェッリを権力、あるいは権力の濫用に結びつける者はいない。ジャンニ・アニェッリは別の次元に生きた、“唯一の男”だった。ジャンニ・アニェッリは、低俗な口答えも過激主義者の抗議も受け入れない、高潔な人間だった。紛れもなく、彼は高貴な存在だった。
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