写真●グエリン・スポルティーヴォ
Photo by GUERIN SPORTIVO
003年1月24日、ジャンニ・アニェッリが死去した。偉大なる企業家であり、ユヴェントスの名誉会長にして偉大なるユヴェンティーノだったアニェッリの死は、その日のうちに世界中に伝えられた。そして2日後の26日、世界中にコネクションを持ち、世界中から尊敬を集めていたアニェッリに最後の別れを告げるために、1万人を超える人々がトリノのドゥオーモで行われた葬儀に駆けつけた。テレビ局は計10時間を費やし、日刊紙は計100ページを割いて“アッヴォカート”の死――トリノ大学の法学部を卒業していることから、彼は弁護士を意味する“Avvocato”の愛称で親しまれていた――を伝えた。死因は以前から公表されていた前立腺ガンだった。

 1921年3月12日生まれのジャンニ・アニェッリは、カルチョを愛し、車に情熱を注ぎ、イタリア人であることに誇りを持つ、生粋のトリノ人だった。また、イタリア経済界のリーダーであり、同時に莫大な遺産の相続人、つまりFIATの創設者ジョヴァンニ・アニェッリの孫であり、祖父と同じくFIATの会長でありオーナーでもあった。アニェッリがFIATの会長職に就任したのは1966年、彼が45歳の時のこと。就任後、FIATの立て直しを図ると共に、ランチャ、フェラーリなどを買収、スポーツカーの分野でもその存在価値を示し、政治家や役人よりも巧みに、イタリアという国を世界にアピールしてきた。

 ジャンニの父エドアルドは、1923年にユヴェントスの会長職に就いた。父エドアルドがユヴェントスの会長になったのはジャンニが2歳の時であり、彼が4歳の時にはスクデット獲得も経験した。父エドアルドが1935年に交通事故によって悲劇的な死を遂げると、祖父ジョヴァンニの導きで、ジャンニは17歳の若さにしてユヴェントスの役員会の一員となる。ユヴェントスの会長には1947年7月22日に就任。49−50シーズンには早くもスクデットを獲得し、強いユーヴェの礎を築いた。

 アニェッリはスポーツを心から愛した。各界に豊富な人脈を持つアニェッリは、2006年にトリノで開催される冬季オリンピック誘致にも尽力した。彼がイタリアスポーツ界に残したものは、ユヴェントスとフェラーリ、そして冬季オリンピックなのである。

 もちろん、あらゆるスポーツの中で最も情熱を注いだのは、ユヴェントスとフェラーリであった。そして、ユヴェントスに対してもフェラーリに対しても、彼はイタリア一のファンであった。その証拠に、訃報が届いた“あの日”、フェラーリの本部があるマラネッロでは“跳ね馬”の紋章の半旗が掲げられ、ユヴェントスは、スタディオ・デッレ・アルピがユヴェントス所有となった暁には、スタディオ・ジョヴァンニ・アニェッリという名称で呼ぶと発表した。

 彼が心から愛したF1のフェラーリのエース、ミヒャエル・シューマッハーは、総帥の死に対し次のように語っている。「本当に残念です。彼を尊敬していたし、お会いできることを誇りにも思っていました。フェラーリとF1とサッカーに対するあの行動力と好奇心、そして世界で起こる事件へのあの問題意識の高さ。会うたびに感銘を受けずにはいられませんでした」。
 また、彼が心から愛したユヴェントスの指揮官、マルチェッロ・リッピは、涙に声を詰まらせながら次のようなコメントを残している。「ユヴェントスに3つ目の星(ステッラ、30回目のスクデット)をもたらすことができたら、アッヴォカートはどれほど喜んだことだろう……私はそれを忘れないでいたい。誰が3つ目の星をユーヴェに捧げるかはわからない。しかし、彼は必ず空からそれを見届けているはずだよ」。
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