946年8月12日、第二次大戦直後にジェノヴァで活動を続けていた3つのサッカークラブのうち、アンドレア・ドリアとサンピエルダレネーゼが合併、“UNIONE CALCIO SAMPDORIA”(ウニオーネ・カルチョ・サンプドリア)が誕生した。ちなみに、残る一つがイタリア最古のクラブ、ジェノアである。

 アンドレア・ドリアとサンピエルダレネーゼの合併は当初、好意的に受け入れられなかった。この2チーム間のライバル意識が強かったからである。しかし、2チームには合併せざるを得ない理由があった。サンピエルダレネーゼはチームとしての実力はあったが、クラブ経営のための資金が不足していた。一方、アンドレア・ドリアは、資金はあったが、セリエAでプレーするだけの戦力を有していなかった。そんな状態だったので、両チームは1750万リラの資本金で新会社を設立し、新チーム、サンプドリアとして新たなスタートを切ったのだ。サンピエルダレネーゼのシャツは白地に赤黒の横縞、一方、アンドレア・ドリアのシャツは青と白だった。両チームのカラーを組み合わせ、サンプドリアのユニフォームは青地に白の帯、その中に赤黒の縞というデザイン、“ブルーチェルキアーティ”(鉄の輪を巻いたブルー)に決定した。初代会長にはピエロ・サンクイネーティが選出された。

 サンプドリアが、偉大なるチームとして世界に認識されるまでには、長い年月と多くの汗が必要であった。セリエAで数多くのシーズンを戦った後、サンプドリアは、80年代後半から90年代前半にかけて、黄金の時代を迎える。黄金時代を迎えるまでのサンプは実につつましいシーズンをくり返していた。48−49、56−57、58−59シーズンでの5位、60−61シーズンでの4位は、当時のサンプにとっては“快挙”だったが、その他のシーズンは中位から下位をさまよう状態だった。65−66、76−77シーズンにはセリエBへの降格も経験している。

選手からもファンからも慕われたパオロ・マントヴァーニ。サンプドリアの一時代を築いた名会長である
 サンプドリアにとって、2度目のB降格が上昇への大きな分岐点となった。正確に言えば、Bに降格したサンプドリアをパオロ・マントヴァーニが買収した1979年7月3日、サンプドリアは生まれ変わったのだ。パオロ・マントヴァーニはローマ生まれだが、仕事の関係で港町ジェノヴァに住み着いた実業家である。5隻の船を有していた“船主”マントヴァーニは、73年、広報としてサンプドリアのフロントに加わっている。だが、76年に5隻の船を売り払い、その金で石油会社『PONTOIL』を買収、事業に専念するためサンプドリアを離れた。ところが、サンプドリアへの情熱を抑え切れず、79年5月にサンプドリアの株を買い占め、クラブの筆頭株主になると同時に、サンプドリアの会長の座に就いたのである。

 会長就任当初から順風満帆というわけにはいかなかったが、紆余曲折の末、マントヴァーニのサンプドリアは82年にセリエA昇格を成し遂げた。そして、セリエA昇格と同時にサンプドリアはカルチョメルカートの主役になった。すでに2年前に獲得していたピエトロ・ヴィエルコウッド(コモ、フィオレンティーナ、ローマにレンタルで貸し出されていた)に加え、トレヴァー・フランシス(イングランド代表のストライカー)、リアム・ブレディー(プラティニの加入によりユヴェントスでのポジションを失い放出された北アイルランド代表のスター)、ボローニャから40億リラで手に入れた若きロベルト・マンチーニなど、サンプドリアは新戦力を積極的にメルカートに求めたのだ。だが、補強の成果がすぐに表れるほどセリエAは甘くなかった。セリエAに復帰した82−83シーズンとその翌シーズン、サンプドリアは苦戦を強いられた。

 サンプドリアが大きな上昇カーブを描き始めたのは84−85シーズンのことだった。監督にエウジェニオ・ベルセッリーニを迎えたこのシーズンも、マントヴァーニは大きな補強を実施した。30億リラを投資してジャンルーカ・ヴィアッリを獲得したのもこの年の夏だった。リヴァプールから手に入れたグレアム・スーネス、モレーノ・マンニーニ、ファウスト・サルサーノと、金に糸目をつけずカンピオーネを買いあさった。そうした補強の甲斐あって、サンプドリアはチーム史上初のタイトルを手にすることになる。1985年7月3日、決勝でミランを破り、コッパイタリアを獲得したのである。

 翌年の夏、マントヴァーニは、世界を股にかける監督、ヴヤディン・ボシュコフをサンプのベンチに迎え入れた。ボシュコフは故郷ユーゴスラヴィアでのリーグ優勝だけでなく、スイスリーグや、レアル・マドリーの監督として数々のタイトルを獲得している経験豊富な監督として知られていた。マントヴァーニは、「今のメンバーをボシュコフに預ければスクデット獲得も夢ではない」と確信していた。サンプは、この3年間で、スクデットを争えるだけの戦力を買い揃えていたのである。ジャンルーカ・パリウーカ、アッティリオ・ロンバルド、シュレツコ・カタネッツ、マルコ・ランナ、ベッペ・ドッセーナ、アメデオ・カルボーニ、ジャンニ・インヴェルニッツィなどを新たに加えたサンプは“サンプ・ドーロ”(黄金のサンプ)と呼ぶにふさわしい顔ぶれを揃えるに至っていたのだ。

イタリアを代表するプレーヤー、ジャンルーカ・ヴィアッリ(左)とロベルト・マンチーニ。この2トップは、黄金期のサンプドリアを象徴していた
 サンプは87−88、88−89シーズンと、コッパイタリアを連覇した。そして、89−90シーズンにはカップウィナーズカップで決勝に進出。ヴィアッリの延長での2ゴールでアンデルレヒトを下し、チーム史上、初めてヨーロッパ制覇を果たした。

 翌90−91シーズン、後半の追い上げが功を奏し、サンプドリアはチーム史上初のスクデットを手にする。19ゴールを決めて得点王となったヴィアッリの破壊力と、失点がリーグ2位という攻守のバランスで勝ち獲ったスクデットだった。歓喜の瞬間は1991年5月19日、マラッシで行われたレッチェ戦で訪れた。3−0の勝利を収め、最終節を残してのスクデット獲得が決まったのだ。これが、おそらく、“黄金のサンプ”の頂点だったのだろう。ドリアーノ(サンプドリアのファン)は歓喜乱舞した。生涯にこれ以上はないほどの喜びを爆発させたのだ。

 “サンプ・ドーロ”は、その後、91年のイタリアスーパーカップと93−94シーズンのコッパイタリア優勝をその歴史に加えている。同時に、苦い思い出も記している。ウェンブリーでのチャンピオンズカップ決勝で、サンプはバルセローナに敗れたのだ。延長戦の後半5分、ロナルド・クーマンが蹴った30メートルのFKがゴールネットに突き刺さった時、サンプのヨーロッパチャンピオンの夢は絶たれた。その直前、ヴィアッリが2度にわたって絶好のチャンスを外した後にバルサに与えられたFKだった。「すでにユヴェントス移籍が決まっていたヴィアッリはモティベーションを欠いていた」、そう指摘する者もいた。

 ヴィアッリがサンプを離れると同時に、“サンプ・ドーロ”もその終焉を迎えた。黄金の時代は終わったが、名門の誇りを失わず、98−99シーズンまでは必死にセリエAにしがみついた。ヴラディミール・ユーゴヴィッチ、ルート・フリット、シニシャ・ミハイロヴィッチ、ヴァルテル・ゼンガ、クラレンス・セードルフ、クリスティアン・カランブーなど、世界のスーパースターがブルーチェルキアーティのユニフォームを身につけてプレーした。だが、“ミスター・サンプ”と呼ばれたロベルト・マンチーニがラツィオに移籍した97年夏、サンプの輝かしい時代に終止符が打たれた。それから2年後の1999年5月16日、サンプドリアはセリエBに降格したのである。
2 / 4