それは、1年にも及ぶ“求愛”だった。カジュアルシューズ会社『TOD'S』の社長であり、フィオレンティーナのオーナーでもあるディエゴ・デッラ・ヴァッレは、ついに目的を達成したのである。2004年7月19日、彼が保有するフィオレンティーナは、日本サッカー界のシンボルである27歳のMFヒデトシ・ナカタを獲得したのだ。ナカタにヴィオラ色のユニフォームを着せるまでの交渉は、長く困難なものだった。実に7月の初めまで、ナカタは彼のイタリアでの生活を、マッツォーネ率いるボローニャで続けるつもりでいたのだ。しかし、実際にそうはならなかった。ナカタはなぜ、ボローニャを捨ててフィレンツェに新天地を求めたのか?ここでは、その移籍の真相を探っていきたいと思う。

デッラ・ヴァッレは、現在のイタリア経済界の“真の寵児”とも言うべき人物である。ファッション界を中心に多大な投資を行っている彼にとって、日本のファッション市場は非常に重要なものであった。事実、彼は現在、東京の表参道に巨大な『TOD'S』ショップを建設中なのだ。

2003年9月、それは、まだフィオレンティーナがアルベルト・カヴァシン監督に率いられ、セリエBの中位をさまよっていた頃のことだ。実は、デッラ・ヴァッレはその頃から、スカウト陣にナカタ獲得の指示を出していた。「ナカタは我々の助けになってくれる選手だ。プレーにおいても、チームのイメージアップという点でも役に立ってくれるはずだ」とまで、彼は語っていたのである。デッラ・ヴァッレは、ヴィオラの取締役、パオロ・ボルゴマネーロにナカタ獲得交渉を託した。当時、ナカタは新しい就職先を探していた最中だった。パルマで移籍初年度(01−02シーズン)こそ良いプレーを見せたナカタだったが、2002年夏にクラウディオ・プランデッリが監督に就任してからは出番が減り、リザーブに回ることが多くなっていた。そんな中、パルマはナカタをレンタルでどこかのチームに移籍させることを決意したのだった。

この時、フィオレンティーナもナカタ獲得に名乗りを上げた。もちろん、ミラノのファションショーなどでデッラ・ヴァッレと面識があったヒデは、その申し出に感謝した。しかし、彼から“シューズ王”へもたらされた答えは「No」だった。セリエBでのプレーを受け入れることは、ヒデにはできなかったのである。さらに、その時期、彼にはマッツォーネ率いるボローニャからも熱烈なラブコールが届いていた。ナカタはペルージャ時代にマッツォーネの下でプレーしている。その時から2人の相性は抜群だった。そこで、ヒデは即座にボローニャ行きを決めたのである。ナカタ入団後、ボローニャは全く別のチームに生まれ変わった。ナカタが入るまでのボローニャは、降格圏内をさまよい続けている状態だったが、ナカタはすぐに、チームをリーグ中位にまで引き上げたのである。

そんな状況の下、デッラ・ヴァッレはナカタをフィレンツェに連れてくるという目標から一時撤退した。しかし、“夢”を完全に諦めたわけではなかった。

その後、ナカタの活躍もあってボローニャはセリエA残留を決めた。一方、フィオレンティーナはペルージャとのプレーオフを制し、セリエA昇格を果たした。チェッキ・ゴーリが破産し、チームがセリエC2に降格させられてからわずか2年。フィオレンティーナは、信じられないような偉業を成し遂げ、再びセリエAの舞台に舞い戻ったのである。

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