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| 文●アレッサンドロ・ボッチ text by Aressandro BOCCI |
2002年、ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ会長のフィオレンティーナは暗黒の年を迎えた。セリエBへの降格、そして破産……。チェッキ・ゴーリは牢獄での生活を命じられ、債務の責任を問われペナルティを科されたフィオレンティーナは、カルチョ界から半ば追放の身となったのだ。 しかし、フィレンツェには熱烈なティフォージがいる。何があってもアルテミオ・フランキにかけつける約3万人のファンがいるのだ。ティフォージの支援の下、フィオレンティーナは、2002年の悪夢からわずか2シーズンでセリエA復帰を成し遂げた。 チェッキ・ゴーリの後を継ぎ、現在フィオレンティーナの財政を取り仕切るのは、シューズの製造(世界的シューズメーカー「TOD’S」)で知られたマルケ州出身の実業家で、『コリエレ・デッラ・セーラ』紙の株主でもあるディエゴ・デッラ・ヴァッレである。デッラ・ヴァッレは、ルーカ・コルデーロ・ディ・モンテゼモロ(FIAT社会長)とマッシモ・モラッティ(インテルのオーナー)の親友で、大のインテリスタでもある。 2002年8月1日、この日をヴィオラ・ティフォージは生涯忘れることがないだろう。この時点で、フィオレンティーナはセリエBに降格しており、クラブの財政はどうしようもないところまで逼迫していた。チェッキ・ゴーリはクラブの破産を防ぐため、ありとあらゆる方策を試みたが、フィオレンティーナは2680万ユーロ(約34億8400万円)の負債を抱え裁判所管理のものとなった。このうち、1350万ユーロ(約17億5500万円)は選手への給料未払い分である。 イタリア最大の映画プロモーターとして知られるチェッキ・ゴーリは、長い間つき合いのあった銀行に融資を申し込んだ。少なくとも翌シーズンのセリエBの登録に必要な資金を準備する必要があったのだ。さらに、チェッキ・ゴーリはシルヴィオ・ベルルスコーニの元に出向き、自宅の家具を売却する話までしている。 だが、彼のすべての目論見は水泡に帰した。8月1日、フランコ・カラーロが会長を務めるFIGC(イタリアサッカー連盟)は、フィオレンティーナからプロサッカーチームとしての資格を剥奪したのである。フィオレンティーナが法的に完全に倒産するのも、もはや時間の問題だった。そして、9月27日、フィレンツェの裁判所は、フィオレンティーナの和議の申し出を却下。ここに、フィオレンティーナは破産宣告を受けるに至ったのだ。 フィオレンティーナがプロとしての資格を失った8月1日は、うだるような暑さの日だった。カラーロ会長をはじめ、ミランのアドリアーノ・ガッリアーニ、ユヴェントスのアントニオ・ジラウド、ローマのフランコ・センシなど、カルチョ界を動かす大物たちは、フィレンツェの町からプロサッカークラブが消失する事態だけは避けようと、話し合いの場を持って解決策を模索していた。協議の末、FIGCの下した結論は、フィオレンティーナをディレッタンティ(アマチュアリーグ)ではなく、プロとして最も下位のカテゴリーであるセリエC2から再出発させることだった。プロとしての資格を剥奪されなかったことには、FIGCの情状酌量とも言える配慮があったと解釈すべきだろう。 |
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