本誌記事 WebCALCiO 2002
【チェストミル・ヴィツパレック】

ヴィツパレックは、チェコ代表として活躍した後、イタリアで監督として大きな成功を収めた人物。70年代にユヴェントスを率い、71−72、72−73シーズンにスクデットを獲得。73年にはチャンピオンズカップ(現リーグ)決勝でヨハン・クライフ擁するアヤックスに屈したものの、クラブ史上初の準優勝に導いている。

【しばし与えられた“自由”】

第2次世界大戦後のチェコスロヴァキアは、共産党が一党支配を行う社会主義国家だった。しかし60年代後半、ドプチェク政権下で自由化、民主化の動きが起こる。この改革は“プラハの春”と呼ばれ、国民は言論・集会の自由などを保障されたが、68年、自由化の波が東欧諸国に広まることを危惧したソ連軍による侵攻を受け、制圧されてしまった。

【ヴィツパレックの紹介】

選手としてのキャリアに恵まれなかったゼマンは、決してサッカーの監督になるべくして生まれたような男ではない。彼の伯父、ヴィツパレックがたまたま監督だったことが彼の監督への道を開いたと言える。当時ゼマンは、叔父が率いるユヴェントスのゲームを見るために、しばしばトリノまで足を運んでいる。彼はユーヴェの試合結果に一喜一憂していた。だが、時代はユーヴェではなく、アヤックスだった。ミケルス率いるアヤックスがヨーロッパサッカーを支配していた時代である。

【生理学的に最大の効果をもたらす】

生理学とスポーツ医学のエキスパートであるゼマンは、その豊富な知識を選手のトレーニング方法に活用、独自の食事メニューを設定するなどした。シーズンオフの間に蓄えられた余分な体重と脂肪を除去するために、ジャガイモを中心としたメニューを摂らせた例もある。


ズデネク・ゼマンという人物を理解するためには、まず、彼の生誕について振り返る必要がある。ズデンゴ(親しい者の間ではこう呼ばれている)は、1947年5月12日、チェコスロヴァキアの首都プラハに生まれている。父のカレルはチェコスロヴァキアでトップクラスの外科医であり、プラハの病院で主任医師として働いていた。母のクヴェティウシャは専業主婦。そして、彼女の実の兄が、あのチェストミル・ヴィツパレックである。

青年期をプラハで過ごしたゼマンは、高校時代にありとあらゆるスポーツを経験した。冬場はササヴァ川の凍った川面でアイスホッケー、その他のシーズンはバレーボールやハンドボールに興じた。ただし、サッカーに関してはスラヴィア・プラハの下部組織でプレーした経験があるものの、才能に恵まれていたとは言いがたい。プロ選手としてのキャリアを得ることもなかった。

68年、ソ連軍のチェコスロヴァキア侵攻が、ズデンゴの人生の分岐点となる。当時、彼はイタリアでバカンスを楽しんでいた。伯父のヴィツパレックの家で、しばし与えられた“自由”を享受していたのだ。彼はひとまずプラハの家に戻り、ソ連軍の支配の下、医学部の入学許可を待ったが、1年近く待っても医大への登録はできなかった。

思うに任せない日々を送る中、ゼマンは徐々に、バカンスを過ごしたパレルモの町が恋しくなっていく。そして69年、モンデッロのビーチが恋しくなった彼は、ソ連軍の管理下で自由を失っていたチェコスロヴァキアを脱出し、自由の地シチリアに舞い戻った。パレルモ大学の体育学部に入学したゼマンは、“スポーツ医学”に関する論文を書いて卒業証書を手にする。さらに、彼はこの頃、やがて妻となるキアーラ・ペリコーネと知り合っている(後にカレル、アンドレアの2人の子供を授かる)。そして、75年にイタリアの市民権を得るに至ったのである。

その前年、ヴィツパレックの紹介で、ゼマンはパレルモの下部組織を指導することになった。パレルモは、かつてヴィツパレックがチームのシンボルとして君臨し、監督も務めたチームである。プレーヤーとしては何の実績も残していないゼマンだったが、伯父の影響が色濃く残るチームで指導者人生のスタートを切ることができた。確かに、幸運に恵まれた面もあったが、それだけではない。すでに戦術論に長けていたゼマンは、パレルモの若手選手を相手に斬新な戦術の実験を行ったのだ。全員がピッチを休みなく動き回る、超攻撃的なサッカー。徹底した戦術サッカーを推し進めたゼマンは、異色の指導者としてシチリア島内で知られる存在となった。伯父のヴィツパレックも、ゼマンの監督としての能力を高く評価していた。そこで彼は、ゼマンにコヴェルチャーノの監督コースを受講するよう勧めたのだ。そして85年、ゼマンは28歳にして監督のライセンスを取得し、セリエAやセリエBのトップチームを指揮する資格を手にしたのである。

話が前後するが、トップチームの監督としてゼマンに真っ先に注目したのは、当時セリエC2に所属していたシチリアの小さなクラブ、リカータのジュゼッペ・アラビージオ会長だった。83年、ゼマンはリカータの申し出を受諾すると、パレルモの下部組織で育てた若手をリカータに連れて行き、自分の戦術を100パーセント理解した選手を軸に、スペクタクルなサッカーを実践した。

彼は4−3−3のシステムを敷いたが、前線の3人は完全なFWとして守備の負担を軽くし、その分、中盤の3人に走力と運動量を、そして両サイドバックには積極的なオーバーラップを求めた。サイドバックが相手ゴール前に殺到するシーンは、当時のゼマンサッカーではごく当たり前に見られたのである。背後で守るのは通常4人。それ以外の選手は、相手がボールを持った瞬間に、高い位置でプレスをかけることが義務づけられた。そして、相手のボールを奪った時点でただちに攻撃に転じる。あるいは、MF、DFからの縦パスからのカウンターアタックなど、相手に時間的余裕を与えないサッカーを展開した。現在と同様、浅いディフェンスラインもゼマンサッカーの特色だった。当然、裏を突かれて失点を重ねる危険性も高かったが、それでも、ゼマンは積極的な押し上げとオフサイドトラップを駆使して相手のチャンスの芽を摘むサッカーをやめなかった。

すでにこの時代から、現在の主流であるプレッシングサッカーを推し進めていたゼマンの先見性にはただ驚くばかりだ。例えば、DFが浅いラインを保つゼマンのスタイルでは、DFとGKの間に大きなスペースが生じるため、GKにスイーパーとしての仕事が要求された。「GKは足下のボールの扱いにも慣れなくてはならない」というのは、今では当たり前の考え方である。だがゼマンは、GKへのバックパスが禁じられる以前に、そのようなサッカーを要求していたのだ。

彼のサッカーが想像を絶する運動量を要することは、有名な話である。ゼマンは理想とするサッカーを実現するために、壮絶なトレーニングを選手に要求した。中距離走と長距離走をくり返すことでのスタミナアップ、足腰を鍛えるためのスタジアムの階段の昇降、仲間を背負ってのダッシュ走。すべてのプログラムが、生理学的に最大の効果をもたらすよう組み込まれていた。さらに、ハードなトレーニングの後は、数時間に及ぶ戦術ミーティングが行われた。選手は数10種類の戦術パターンをすべて覚えなくてはならなかった。

リカータでの指導を開始した時点で、すでにゼマンのスタイルは確立されていたと言えるだろう。この後、さらなる経験を積んで、その独創的なスタイルは首都ローマで完成を見ることになる。ゼマンを尊敬するアリゴ・サッキは、かつてこう語った。「監督が誰かを知らずに、彼のチームの試合を見たとしよう。でも、多分1、2分で誰が監督かわかるはずだよ。ゼマンは自分の意思をピッチ上にはっきりと明示しているからね」。

2 / 5