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【大きなショック】
シーズン開幕前、パルマはセリエAのコモに勝利した他、なんとレアル・マドリーやローマといったビッグクラブも破り、コッパイタリアではPK戦ながらミランを下すなど、昇格レースの大本命との評価を受けていた。 【スペクタクルなサッカーを展開した】
ゼマンのラツィオはシーズンを通じて派手な戦いを演じた。フィオレンティーナには8−2、古巣フォッジャには7−1で勝利、さらに、オリンピコでミラン相手に4−0の勝利を挙げる。このシーズン優勝したユーヴェ相手にも、敵地デッレ・アルピで3−0と快勝している。 リカータでの初年度、ゼマンはセリエC2で中位のポジションをキープした。そして翌84−85シーズン、早くもC2優勝を果たす。リカータにとって歴史的快挙となるセリエC1への昇格を実現すると、その翌年は残留に成功し、セリエB昇格への足場を固めた。フォッジャ時代の彼の右腕となったペッピーノ・パヴォーネ(かつてインテルでプレー)と知り合ったのもこの頃だった。 そんな中、リカータで実績を残したゼマンに、フォッジャ(当時C1)のカシッロ会長が目をつける。翌シーズン、フォッジャで順調に勝利を重ねていたゼマンだが、シーズン途中で別のチームが獲得に名乗りを上げた。当時セリエBのパルマである。ゼマンにとって、パルマを指揮することは大きなステップアップだった。シーズン半ばにしてフォッジャを去った彼は次のシーズン、パルマに赴く。 しかし、87年、パルマを率いてのセリエB初挑戦は悲惨な結果に終わった。第7節終了時点で、1勝4敗2分けという成績に業を煮やした首脳陣は、ゼマンを解任した。ゼマンにとっては大きなショックだったはずだ。カンピオナートわずか7試合でパルマを追われたゼマン。だが彼は、パルマを率いた短い期間で、勇気を持ってアポッローニ、オージオ、メッリ、ガンバロなどの若手をピッチに送り出した。彼らのいずれもが、やがて代表のシャツを着るようになるのだから、ゼマンの眼力の鋭さは評価に値する。 翌シーズン、ゼマンはシチリアに戻りメッシーナを指揮した。メッシーナでの指揮はわずか1年間だったが、この時、メッシーナは“怪物”の誕生を見た。トト・スキラッチである。スキラッチは23ゴールを記録し、やがて訪れる90年W杯の栄光へのプロローグとも言うべきプレーを披露した。シーズン終了後、ゼマンが監督の座を追われる時、選手たちは会長に「ゼマンを解任しないで!」と懇願したのだった。
一方、フォッジャはこの年の夏、セリエBに復帰していた。カシッロ会長にとって、未来に向けた夏が始まっていたのだ。その第一手として、カシッロは解任を噂されているゼマンに電話を入れた。一本の電話で2人の友情は蘇り、改めてゼマンのフォッジャ加入が決まった。続いて、GMのパヴォーネを加えた3人体制でのチーム運営が確認されると、首脳陣は将来を嘱望される若手に目をつけた。マニコーネ、ランバウディ、シニョーリ、さらにバイアーノ、マトレカーノ、ディ・ビアージョ、パダリーノ、セーノといった選手がゼマンの下でプレーするようになったが、いずれも、やがて代表でプレーする選手ばかりである。さらに、ゼマンは自分のサッカーをフォッジャに完璧に植えつけるため、パレルモ時代に最も信頼した弟子であるヴィンチェンツォ・カンジェロージを助監督に招いたのだった。
そして迎えたフォッジャでの2年目は、まさに“ゼマンランド”誕生の年となった。90−91シーズンのフォッジャは、ある意味、チームとしてすでに成熟していた。彼らはセリエBで圧倒的な強さを発揮したのだ。21勝を挙げて1位となったが、圧巻はその得点力。ゼマンの攻撃サッカーは、何と67ゴールを叩き出してセリエBを席巻した。これ以降、攻撃サッカーはゼマンサッカーの代名詞となったのである。 初のセリエA挑戦を前にして、ゼマンは夏の移籍市場で無名の外国人選手を獲得。ルーマニアからペトレスクが、そして、ロシアからコリヴァノフとシャリモフがやってきた。無名の外国人獲得というニュースを聞いた評論家の多くは、「フォッジャはセリエB降格を免れないだろう」と悲観的な予想をした。だが、迎えた91−92シーズン、予想に反して“ゼマンランド”はセリエAのビッグに果敢に向かっていったのである。その戦いぶりは、時としてセリエAのビッグニュースとして扱われた。ファン・バステンを擁するミラン相手に2ゴールを奪った後、8点を取られるというド派手なゲームを演じたことでも、“ゼマンランド”はその名を轟かせた。 初めてのセリエAでフォッジャを9位に引き上げたゼマンは、シーズン終了後、カシッロ会長に意外なアドバイスをしている。「主力選手を放出して、現金を手にするように」というのがその内容だった。ゼマンの助言に従い、会長とパヴォーネGMはシャリモフをインテルに、シニョーリをラツィオに、バイアーノをミランに、ランバウディをアタランタに売却した。そして、主力選手の売却によって得た500億リラ以上の金のほんの一部を、無名の若手選手の獲得という形で再投資したのである。カシッロ会長は、ゼマンのアドバイスのおかげで巨額の富を得ることができた。だが、主力選手を放出して臨む翌シーズンに不安を抱いていたことも確かだった。 フォッジャの町では、会長とゼマンのやり方に不満を持つ者が多かった。だが、ゼマンには若手の潜在能力を見抜く目があった。主力選手放出の後釜として、アルゼンチン人のチャモ、ストロッパ、カッペッリーニといった若手がフォッジャにやって来た。そして迎えた92−93シーズン、“ミラクル・フォッジャ”はくり返されたのである。新戦力の活躍のおかげで、フォッジャは11位に入り、セリエA残留を果たした。
93−94シーズンはさらに躍進し、土壇場までUEFAカップ出場権を争ったが、結局9位に。それでも、3シーズン連続のセリエA残留という快挙を達成したこのシーズン、フォッジャのホームであるスタディオ・ザッカリアはまさに“ゼマンランド”として大いに賑わった。ゼマンは、独自のスペクタクルサッカーを至るところで披露した。特に、ラツィオ戦での4−1の勝利は、ディノ・ゾフ監督の後釜を探していたセルジョ・クラニョッティ会長の目を引くのに十分なインパクトを与えた。クラニョッティは、ゾフをラツィオの会長に据え、監督としてゼマンを招こうと考えたのである。実は、クラニョッティは93年12月の時点で、カシッロにゼマンを譲るよう話を持ちかけている。ラツィオをイタリアサッカー界の頂上に君臨させること、ゼマンのスペクタクルなサッカーでイタリア中を熱狂させること、北の支配に幕を下ろすこと。これこそ、クラニョッティが目指したものだった。 94年の夏、いよいよ、ゼマンのラツィオがスタートした。ゼマンは自らのサッカーを忠実に行う兵士としてチャモとランバウディを指名し、2人をラツィオに連れてきた。クラニョッティは、ナポリのDFチーロ・フェラーラの獲得を勧めたが、ゼマンはこれを断った。この日、その後も長く続く、フェラーラとゼマンの反目が始まったと言える。 “ゼマンランド”はフォッジャから首都ローマに場を移した。ラツィオは、アッズーリに名を連ねる選手でいっぱいとなった。正真正銘の“華麗なるゼマンランド”がここに建設されたのである。GKにはマルケジャーニ、サイドバックにネグロとチャモ、あるいはファヴァッリ、センターバックにネスタとクラヴェーロ、MFにはヴィンター、フゼール、ディ・マッテオ、そして、前線にはカジラギ、ボクシッチ、ランバウディ、さらにシニョーリなど、正真正銘のタレント集団ができ上がったのだ。ラツィオはシーズンを通じてスペクタクルなサッカーを展開した。まさに、“ゼマンランド”全開のシーズンだったとも言える。だが、オリンピコで、この年スーパースターへの道を切り開いていたデル・ピエロの一発に沈んだラツィオは、わずかなところでユーヴェにスクデットを譲る形となった。 |
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