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【パヴェル・ネドヴェド】
実は、ネドヴェドの獲得に関して、ゼマンは95年11月の時点でクラニョッティに獲得を促していた。だが、判断を誤ったラツィオは、結局、EURO96でネドヴェドの市場価格が一気に上がった後で買うはめになったのである。 【13人もの選手を獲得】
この年、トリゴリアにやってきたのは、カフー、コンセル、ディ・フランチェスコ、パウロ・セルジオ、ヴァグネル、キメンティ、ガウティエリ、イバン・エルゲーラなど。 【ジャッロロッソ1年目のシーズン】
このシーズンは、ゼマンにとって、ラツィオへのリベンジを誓った年だった。だが、コッパイタリアを含め、ラツィオと4回対戦したローマは、何と4回とも敗戦を喫した。せめてもの救いは、カンピオナートで最終的に4位に入り、7位に終わったラツィオを上回ったこと。ただし、エリクソン率いるラツィオがコッパイタリアを制覇し、UEFAカップでも決勝に進んだことを思えば、ゼマンにとっては悔いの残るシーズンだったと言えるだろう。 95年の夏、ゼマンはシニョーリをパルマに放出してフィリッポ・インザーギとカランブーの獲得を考えたが、ラツィアーレの大反対を受けて断念。結局、95−96シーズンを満足な補強なしで迎えることになった。夏のキャンプを日本の北海道で行い、迎えたシーズン、ラツィオは好不調の大きな波をくり返すことになった。シーズン途中まで中位に甘んじたが、終盤戦で7連勝を記録して何とか3位に浮上。ゼマンは解任の危機を逃れたが、この時点ですでに、ラツィオの“ゼマンランド”は終焉を迎えていたのかもしれない。 新シーズン、ディ・マッテオ、ボクシッチ、ヴィンターがラツィオを去ると、代わって、ゼマンの強い希望により、彼の祖国チェコからパヴェル・ネドヴェドが首都ローマにやってきた。この年の夏のキャンプは、ゼマンとネドヴェドの故郷、チェコのフランティスコヴィ・ラズネで行われ、ベテラン選手にとっては温泉で体を癒しながらのキャンプとなった。もっとも、チームがいかに体調管理に気を配ろうとも、選手たちはゼマンが課すハードトレーニングに嫌気が差し始めていた。「これ以上、自らの身体を痛めつけたくない」と多くの選手が感じていたのである。 徐々に不満が渦巻く中、ゼマン解任の指令は97年の1月に下された。UEFAカップのテネリーフェ戦で2点のリードを守り切れず、3−5で敗れた時点で、ゼマンの解任が決定した。解任の知らせは、ゼマンがコヴェルチャーノでの監督会議に出席しているさなか、本人に伝わった。ゼマンを途中解任したクラニョッティは、それまで会長職にあったゾフをベンチに呼び戻した。ゾフは、それまでの攻撃主体だったシステムを、攻守のバランスの取れたシステムに変更。シーズン後半の17試合で40ポイントという驚異的な勝ち点を挙げ、チームを4位にまで引き戻してシーズンを終えたのである。ゼマンにとって、これほど屈辱的なシーズンはなかった。
ラツィオの監督を解任されてからも、しばらくの間、ゼマンはオリンピコに姿を現した。彼は常にラツィアーレの人気者だった。彼がスタンドに姿を現すたび、ラツィアーレは温かい拍手を送った。そんなある日、彼に意外なチームから監督就任のオファーが舞い込む。ラツィオの永遠のライバルであるローマの会長、フランチェスコ・センシが、監督就任のオファーを提示してきたのだ。そして、ゼマンはこのオファーを受諾した。ラツィオのベンチからローマのベンチへ、尋常ではない決定が下されたのである。ゼマンは言う。「シーズン終了までチームを任せてくれていたなら、ローマのオファーを受けるなんて発想には至らなかっただろう」。途中解任によってプライドを傷つけられたゼマンは、願ってもないリベンジの場を得たのである。 ゼマンを監督に迎えたローマは、革命的とも言える補強を行った。なんと13人もの選手を獲得し、チームを一新したのである。ゼマンは、トッティを左サイドに、デルヴェッキオをセンターフォワードに据え、浅いディフェンスラインで戦った。ゼマンのジャッロロッソ1年目のシーズンは、やはり“ノーガードの打ち合い”とも言えるゲームの連続だった。総得点67は優勝したユヴェントスと同数で1位だったが、失点42は、上位チームの中では最低の数字であった。 翌98−99シーズンの夏のキャンプ、ローマは、ラツィオのキャンプ地、ヴィーゴ・ディ・ファッサからわずか10キロしか離れていないプレダッツォでキャンプを張っていた。これだけでも話題十分だったのに、ゼマンはマスメディアにさらなる話題を提供した。トゥール・ドゥ・フランスでドーピングによる逮捕者が出たというニュースを受けて、爆弾発言をしたのだ。「イタリアサッカーは薬物依存体質から脱皮しなくてはならない」。ゼマンは、多くの選手がドーピングの恩恵にあずかっているということを暗にほのめかしたのである。さらに、数日後、ゼマンは選手の実名つきでユヴェントスを糾弾した。「ヴィアッリとデル・ピエロの身体には急激に筋肉がついた。これは異常だ」と、筋肉増強剤の使用の疑いを説いたのだ。 ここに、ゼマンvsユーヴェ戦争が勃発した。ユーヴェの監督リッピ、GMのモッジは激しくゼマンに反論した。CONI(イタリアオリンピック委員会)もドーピング調査に入った。陽性と判定された選手の尿が、ローマのドーピング・ラボに隠蔽されているなどという噂も流れた。そんな中、北のサッカーの権力の象徴でもあるインテルのモラッティ会長は、「ゼマンの発言はサッカー界を崩壊に陥れようとしている」と非難。波紋は広がり、イタリアサッカー界vsゼマンという対立構造ができ上がってしまったのだ。イタリアサッカー界はまさにカオスの状態に陥った。そんな中、ドーピング調査の責任を担ったグアリニエッロ・トリノ地検検察官は、ジダン、ロナウド、そしてゼマンを尋問、さらに、ユーヴェの選手全員を尋問した。サッカー界の運命は司法の手に委ねられたのだ。 ドーピング調査が進むと同時に、セリエAの98−99シーズンも進行していった。ゼマンのローマはファンが納得するゲーム内容を続けていたが、順位はなかなか上がらなかった。一方、ラツィオは快調に勝ち点を積み重ね、ミランと激しい首位争いを演じていた。首位争いを演じるラツィオを横目で見ながら、ゼマンが考えていたこと。それは、「我がローマに優勝の目はない。ならば、少なくともラツィオの優勝だけは阻みたい」ということだった。そして、シーズン終了間際のローマ・ダービーで、ローマは3−1の勝利をモノにしたのだ。ゼマンはローマの指揮官として初めて、ローマ・ダービーで勝利した。彼にとって、ラツィオを破ったうれしさ以上に、ラツィオのスクデット獲得を阻んだうれしさのほうが大きかったはずだ。このシーズン、ラツィオは勝ち点1の差でミランにスクデットを奪われたのである。
しかし、ローマの指揮官としてタイトルを手にすることができなかったゼマンに、99年5月、センシ会長は冷や水を浴びせた。センシは翌シーズンのゼマン留任を公言していたが、突然、彼を解任し、新監督にファビオ・カペッロを迎えると発表したのだ。北の権力と戦ってきたはずのセンシが、北の権力の象徴とも言うべきカペッロを監督に迎えた――ゼマンにとって、これは大きなショックであった。 |
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