本誌記事 WebCALCiO 2002


2000年のメルカートの主人公たち、ファブリツィオ・ミッコリ、アントニオ・カッサーノ、ヴァレリ・ボジノフらはすべて、12歳の時にスカウトに見出された逸材である。バーリのGMだったカルロ・レガリーアは、下町でカッサーノを見出した。そして、今シーズンの台風の目となっているレッチェのパンタレオ・コルヴィーノは、ミッコリをレッチェで、マルタ島でボジノフを見出している。

カッサーノを見出したレガリーアは、当時をこう振り返る。「アントニオはバーリの町の小さなクラブでプレーしていた。すごいテクニックを持った子供がいるという噂を聞いて、まずは、一人でプレーを見に行き、その後でスカウトを送り込んだんだ。彼はトップ下をしていたよ。背番号10にはとてもこだわっていたようだったね。時々、バーリの試合のボールボーイをやっていて、選手ともよく一緒に写真を撮っていた。ロベルト・バッジョ、ゾラ、サヴィチェヴィッチといった10番の選手とは必ず2ショットの写真を撮っていたはずだ。彼の才能を疑う者はいなかったさ。なにせ、パルマやインテルが下部組織のセレクションに呼んでいたくらいだからね。なぜ、インテルがアントニオを獲らなかったのか、その理由はわからない。そうそう、彼がバーリの町を離れたがらなかったのが理由だったのかもしれないな。アントニオはこの町でプレーしたがった。だから、バーリが獲得することができたのさ。若手を大きく育てるためには、勇気のある監督が必要となる。その点では、我々にはファッシェッティがいた。アントニオを育て上げる条件は揃っていたんだ」。

当時、カザラーノのGMだったコルヴィーノは12歳のミッコリの才能に魅せられたと言う。「ファブリツィオはレッチェの管理下にあるチームでプレーしていた。彼の才能に最初に気づいたのはミランだった。ミランは彼をロンバルディーア(ミラノがある州)に連れて行った。自分たちの管理下で育てようとしたんだ。だが、故郷から遠く離れた町で暮らすには、彼はまだ若過ぎた。ファブリツィオはホームシックにかかってしまったんだ。そうした寂しさをわかっていたから、私はちょくちょく電話してやったもんだよ。数カ月後、彼はプーリア州に戻る決心をした。私のカザラーノでプレーする決断をしたんだよ」。

やがて、コルヴィーノはレッチェのGMに昇進。セリエC2のカザラーノと比較すると3階級特進とも言える出世だった。出世と同時に、彼のインスピレーションも鋭さを増していった。ある時、彼は「マルタ島にすごい子供がいる」という噂を耳にした。「それがボジノフだったんだ。私はすぐにプレーを見に行った。彼の継父はサッカー選手で、当時、マルタでプレーしていた。ボジノフは継父のチームの下部組織でプレーしていたんだ。母親と継父はボジノフがイタリアで暮らすことに同意してくれたよ。彼はあたかも人生で2度目の養子縁組をするかのごとく、私とともにレッチェに来たんだ」。

セリエC2のカザラーノでGMをしていた時、コルヴィーノ(左)はミッコリを獲得。その後、レッチェのGMに昇進している

ミルコ・ヴュチニッチは長期間に及ぶケガでの戦線離脱や短気な性格が災いして、その能力を開花させるまでに時間を要した。だが、今では“ゼマンランド”のテクニック面のリーダーとして地位を確立している。このヴュチニッチを発掘したのもコルヴィーノだ。コルヴィーノはセルビア・モンテネグロ国籍のヴュチニッチの情報をサルデーニャの仲間から聞いたという。サルデーニャで開かれたディレッタンティの大会にヴュチニッチが参加していたのだ。「彼は当時16歳だった。ともかく、すごい選手だというから、当時、レッチェの監督をしていたカヴァシンとモンテネグロまで飛んだのさ。そして、チームに願い出て親善試合を組んでもらったんだ。生で彼のプレーを見た直後、カヴァシンも私も迷うことなく、直ちに契約書にサインしてもらったよ」。

もっとも、アルゼンチン国籍のレジスタ、クリスティアン・レデスマの獲得には苦戦したようだ。「彼のプレーを初めて見たのはベッリンゾーナの国際ユース大会。気に入ったので、すぐに獲得交渉に入ったんだ。ところが、ボカ側は10億リラ(約6000万円)を要求してきた。レッチェのような小さなクラブでは支払うことのできない金額さ。当時、レデスマの獲得に、ウディネーゼ、コモ、キエーヴォなどがオファーを出していたらしい。そこで、ボカ側も強気な値段を言ってきたんだろう。結局、他のチームは交渉から手を引き、残ったのがレッチェだったというわけさ。メルカート最終日に、ボカ側から連絡が入ってね。最終的に10万ドル(約1100万円)で話がまとまったんだ」。

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