本誌記事 WebCALCiO 2002


バルセローナからインテルに移ったエレーラ監督は、1年後の61年夏にスアレスを呼び寄せた。 60年のバロン・ドールに輝いていたスアレスはエレーラの期待に応え、インテルでバルセローナ時代を上回るの活躍を見せた。 エレーラとスアレスを中核とするインテルはスクデットやチャンピオンズカップなど、あらゆるタイトルを獲得し、“グランデ・インテル”と呼ばれるまでに至った

監督とその秘蔵っ子の代表例として、多くの人が記憶しているのが、エレーニオ・エレーラ監督と彼の秘蔵っ子ルイシート・スアレスだろう。 バルセローナの監督として栄光を掴んだエレーラは、1960年の夏にインテルの監督に就任した。 そして、翌年の夏、彼はアンジェロ・モラッティ会長に、ベテランFWのアンジェリッロを売り払い、その金でスアレスを獲得するよう依頼したのである。 モラッティ会長はエレーラの要望どおり、2億5000万リラの大金を払って、バルサからスアレスを獲得。 エレーラは、1960年のバロン・ドールを受賞したスアレスの高い能力にインテルの未来を託したのだ。 最初のシーズンこそスクデットをミランに譲ったが、スクデットを獲得した62−63シーズンからあらゆるタイトルを総ナメにし、世に言う“グランデ・インテル”を築き上げたのである。

ローマに40年ぶりのスクデットをもたらした指揮官、ニルス・リードホルムの下にも2人の秘蔵っ子がいた。 アルド・マルデーラとアゴスティーノ・ディ・バルトロメイである。 マルデーラは積極的な攻撃参加を持ち味とした左サイドバックであり、リードホルムがミランの監督をしていた時期に育て上げた選手。 ディ・バルトロメイはリードホルム自身がMFからリベロにコンバートした選手である。 ディ・バルトロメイはローマでリードホルムのスクデット獲得に大きく貢献した後、リードホルムとともにミランに移り、さらに3年間プレーした。

87年の夏、全国的には無名のアリゴ・サッキがミランの監督に就任した。 前シーズンのコッパイタリアで、ミランを破ったパルマ(当時セリエB)の攻撃サッカーに魅了されたベルルスコーニ会長が招聘したのである。 それから4年間、ミランは“プレッシングサッカー”と“ゾーンプレス”で、サッカー界の頂上に君臨することになる。 サッキの売りは革新的な戦術であり、選手にとっては馴染むのに時間が必要だった。 チームを機能させるためには、サッキは自分のサッカーを完璧に理解してくれる選手が必要だった。

サッキのプレッシングサッカーには戦術的制約が多く、適応できなかった選手も数多い。ムッシはカンピオーネと呼べるほどの選手ではなかったが、彼の要求を完璧にこなすことのできるインテリジェンスと運動量を備えた右サイドバックだった。セリエC1でプレーしていたムッシは、サッキに導かれて94年W杯アメリカ大会決勝の舞台にまで上り詰めたのである
かくして、サッキの後を追うようにして数多くの選手がミランにやってきた。 ダニエレ・ゾラット、ジャン・ルーカ・ガウデンツィ、ガブリエレ・ザマーニャ……。 そして、かつてサッキが率いたチェゼーナでプレーしたセバスティアーノ・ロッシも、90年の夏にミランにやってきた。 その中でもサッキと最も長くチームをともにしたのはワルテル・ビアンキである。 サッキがビアンキと出会ったのは、サッキがチェゼーナの下部組織の責任者だった80年代の初頭のこと。 サッキがリミニの監督に就任すると同時にビアンキもリミニに移籍し、パルマでもサッキの下で2年間プレー、さらに、ミランでも2シーズンプレーした。 ミランでは通算でわずか5試合出場という記録に終わったが、スクデット獲得の喜びをサッキと共有している。 また、“サッキ組”の代表格、マリオ・ボルトラッツィはレジスタとして、サッキのスクデット獲得に大きな貢献をした。 ボルトラッツィはフィオレンティーナのプリマヴェーラ、そして、リミニでサッキとともにサッカー人生を送り、サッキのミラン監督就任の際に呼び寄せられた選手である。 ロベルト・ムッシも“サッキ組”だ。 ダイナミックかつインテリジェンスを感じさせるプレーを持ち味にした右サイドバックの彼も、サッキがパルマから連れていった選手の一人である。 後に、代表監督に就任したサッキはただちにムッシを招集し、W杯アメリカ大会でもレギュラーとして起用した。

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