|
|
ワールドカップ・ドイツ大会が開幕した現在、人々の視線は我らがアッズーリに集中している。そこで人々は、「アッズーリは真の意味で以前とは違うチームになったのか」を見定めようとする。それがW杯期間中、5600万人の国民全員が代表監督となるイタリアという国が示す反応だ。 “違うチームになる”とはどういうことか。それは、プレーとメンタリティーを変えることである。つまり、かつてのイタリアが用いていたサッカーを放棄できるかどうか、ここに焦点が当てられているのだ。2002年W杯日韓大会で、“Catenaccio”(カテナッチョ)という横断幕が掲げられていたことを覚えているだろうか。あれは、バイロン・モレーノがアッズーリをコケにする前に、イタリアを侮辱したものだった。その後の4年間で、イタリアサッカーが本当の意味で変わることができたのかという疑問は未だ拭えない。アッズーリにとって、ドイツW杯はそれを証明する意味でも重要な大会なのである。 そのドイツ大会を前に、イタリアでは多くの議論が交わされた。だが、ほとんどの人が重要なことを議論し忘れていたように思える。我々イタリア人は、時に無意識のうちに、自分たちが相手より劣っていると考えてしまう傾向にあるのだ。我々はそのことをもう一度見直すべきではないだろうか。現在のアッズーリは決して弱いチームではない。むしろ素晴らしい戦力を持つチームである。それでも我々は、大会が近づくに連れ“イタリアは他国よりも劣っている”という不安にさいなまれてしまうのだ。これは一体なぜなのか? おそらく、イタリア人という人種が、根本的にまとまりを欠く民族だからだろう。グループの力は時に個人の能力を倍増させる。我々はそのことにそろそろ気づくべきだ。1982年スペイン大会でイタリアを優勝に導いた名将、エンゾ・ベアルゾットはイタリア国民に対して、「大丈夫です。安心してください」とは一度も言わなかった。まして、選手の長所や才能を挙げて、チームの実力を誇示することもない。それは、彼がイタリア人の国民性を把握した上で、そんなことをしても意味がないと思っていたからだ。かつてのイタリア代表監督が試合前に取った道は、身を潜めて戦いを待つこと。それは、1934年、38年とアッズーリをW杯で優勝に導いたヴィットリオ・ポッツォの時代からの伝統でもある。スペイン大会の初戦、ポーランド戦の前にヴェーチョ(ベアルゾットの愛称)がこう言ったのをはっきりと覚えている。「今の私は戦争に行く兵士のような気分だ。我々は負傷する覚悟で戦地へと向かう。遠くの丘の上から見物している者たちのことなど関係ない」 |
| 1 / 4 |