歴史
S T O R I A




LAZIO

「首都ローマにサッカーをもたらしたのは、我々である」――これが、ロマニスタに対するラツィアーレの常套句である。実際に、1900年に陸上競技クラブとして誕生したラツィオは、1902年になるとローマにおける最初のサッカー公式戦を記録している。

ルイジ・ビジャレッリをはじめとする創設者を讃え、昨年1月9日に創設100周年記念を祝ったラツィオは、そのシーズンに史上2度目のスクデットも獲得して、記念すべき年に花を添えている。事実上、ラツィオにとって栄光の歴史が始まるのは、現オーナーのクラニョッティが90年代に入りクラブを牛耳るようになってからだ。それまでは、時折輝くだけの凡庸なチームに過ぎなかった。トトネーロ(闇サッカー賭博)のスキャンダルにまきこまれての処罰を含み、セリエAからの降格を数えること5回。計11シーズンをセリエBで過ごしている。

イタリアサッカーが生んだ歴史に残るゴールマシーン、シルヴィオ・ピオラが率いた30年代から40年代にかけてのラツィオは、素晴らしいサッカーで人気を博したチームであったが、ビッグタイトルを獲るまでには至らなかった。時は進んで70年代、FWキナーリアを“ボス”に、セリエAの歴史に名前を刻むチームがようやく誕生する。当時の会長レンディーニは、ビッグからプロヴィンチャーリまで、クラブのレベルを問わず、あらゆるチームの“落第者”たちを買い集めた。そして、マエステッリ監督が“ロング・ジョン・キナーリア”(のっぽのキナーリア)のカリスマ性を押し出しながら“曲者チーム”を作り上げ、74年、クラブに初のスクデットをもたらしたのである。今でもファンから愛されているキナーリアは、80年代に会長職に就いたこともあるが、この時は運から見放されて大きな成果を上げることなく退陣した。クラブ創設からクラニョッティが会長に就任するまでの間に獲得したタイトルは、74年のスクデットを除くとたったの1回。58年のコッパイタリアだけである。86年には、セリエC降格の危機にまで瀕しているが、それを最後にどん底から這い上がってきた。

クラニョッティは、エリクソンを監督に据え、マンチーニをチームリーダーに、ネスタをキャプテンに、そして高額選手で彼らの周りを固めていった。そして、チームをスターダムへと押し上げたのである。こうして、スクデット1回(2000年)、コッパ・イタリア2回(98、2000年)、カップウィナーズカップ1回(99年)、ヨーロッパ・スーパーカップ1回(99年)、さらにはイタリア・スーパーカップ2回(98、2000年)というビッグタイトルをあっという間に獲れるほどの強豪クラブへと変貌を遂げたのだ。
ROMA

ローマは、1900年設立のラツィオから枝分かれする形で、1927年に産声を上げた。そして、アッソツィアツィオーネ・スポルティーヴァ・ローマ(ローマ・スポーツクラブ)、つまりASローマは、すぐにローマっ子たちのハートをとらえたのである。ローマ市民の中で、“最大派閥”と言えるファン数がそれを裏付けている。

初のビッグタイトル獲得には、そう時間はかからなかった。オーストリア系ハンガリー人、シャッファーに率いられたローマは、1942年、“永遠の都”に初めてのスクデットをもたらしたのだ。当時、拠点はローマ南部のテスタッチョ地区(現在もロマニスタの牙城になっている)にあった。そしてホームのアイドルで、チームリーダーだったのがFWのアマデイだ。彼は、父親の店を手伝って毎晩パンを焼いていたことから、“フラスカーティ(ローマ市郊外の町)のフォルナレット(パン屋のせがれ)”というあだ名で親しまれていた。また、ラツィオのGKとしてキャリアをスタートした異色のゲームメイカー、ベルナルディーニは天才肌で知られていた。さらには、アルバニア人クリエズも忘れてはならない選手だろう。

当時のローマは、ファシストの独裁政権統帥であったムッソリーニのお気に入りのチームだったと言われている。ちなみに、ドゥーチェ(統帥、ムッソリーニのニックネーム)がローマ贔屓だったのに対し、彼の子供たちはラツィオファンであったのもイタリアでは有名な話である。

ローマが最も低迷したのは1951年。何と、セリエBへ落ちてしまったのだ。ジャッロロッソ74年の歴史の中で、唯一のセリエB降格である。だが、翌52年にBで優勝して、すぐにセリエAへ返り咲いている。そして、61年、フェアーズカップ(UEFAカップの前身)で頂点に立ち、ヨーロッパの舞台における初の栄冠を手に入れたのだ。今のところ、これがローマにとって唯一の国際ビッグタイトルとなっている。

イタリア国内では、コッパイタリアで7回の優勝を果たしている(64、69、80、81、84、86、91年)。2度目のスクデットは、83年、今は亡きヴィオラ会長が作り上げた“スーパー軍団”によってもたらされた。スウェーデン人監督リードホルムが指揮するローマには、ファルカン、ブルーノ・コンティ(前年に行われたW杯で優勝したイタリア代表の一員として活躍)、プルッツォ、ディ・バルトロメイ、アンチェロッティといったそうそうたるメンバーが名前を連ねており、栄光に輝くのは当然の結果であった。しかし、その翌年にはローマ史上最大の落胆が待っていた。チャンピオンズカップで決勝まで進みながら、PK戦で力尽き、リヴァプールの前に涙を飲んだのである。しかも、場所はホーム、スタディオ・オリンピコであった。PKを失敗したのは、ブルーノ・コンティとグラツィアーニ(彼も82年W杯優勝メンバー)。ファルカンが頑としてPKを拒否した末の“悲劇”であった。

チャンピオンズカップ準優勝を最後に、ローマは徐々に“落ち目”のチームとなっていく。そして、現オーナーであるセンシが就任するまで、平凡なチームとしてセリエAの中に埋もれることになってしまった。そして今、センシが奮戦した8年間の努力が実り、ローマは再び第一線に復活し、新たなページを刻み始めたのである。
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