ほとんどの場合、ファンは彼を支持した。
ユーヴェ移籍が決まった90年夏、フィレンツェの町では怒り狂ったファンが警官隊と衝突する騒ぎが起こった。
この時も、ヴィオラのティフォージはバッジョに怒りを爆発させたわけではない。
愛しているからこその行動であり、怒りが向けられたのはあくまで「オレたちの宝石を盗んでいった」ユーヴェだった。
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| 自身2度目の出場となったW杯アメリカ大会。今や伝説となったブラジルとの決勝戦、PK戦でバッジョは5人目のキッカーとして登場した。しかし、彼の蹴ったボールがクロスバーを越えた瞬間、ブラジルの優勝が決まった |
ビアンコネーロのユニフォームを着たロビーがヴィオラのマフラーを手にピッチを後にした時、ユヴェンティーノはバッジョの忠誠心を疑ったが、「逆の立場だったらどうかを考えてみるべきだ。
私は彼の行為を称賛したい」というジャンピエロ・ボニペルティ会長の言葉には同意せざるを得なかった。
94年のワールドカップ、バッジョは悲劇のヒーローにしかなれなかったが、今でもあの大会を振り返る映像作品で主役を演じているのはMVPに選ばれたロマーリオではなく、バッジョである。
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| 97‐98シーズンにはボローニャに移籍。そこで30試合出場し、22ゴールと見事な復活を遂げた |
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| ボローニャでの活躍により98年W杯フランス大会に出場するアッズーリに選出された。しかし、デル・ピエロの台頭もあって出場時間は限られたものとなった |
98年、W杯出場のためにボローニャでプレーするという“自分自身との賭け”に彼は勝利を収めた。W杯フランス大会は準々決勝で敗れたが、最後のPKを失敗したチームメートを慰めるバッジョからは、成熟した大人の貫禄が感じられた。背番号10をアレッサンドロ・デル・ピエロに譲り、背番号18のユニフォームを身に付けたが、この大会でのアッズーリのエースがバッジョだったことは異論のないところだろう。
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| 04年4月28日に行われたスペインとの親善試合が、バッジョの代表引退試合となった。ちなみに、代表では通算56試合出場、27ゴールという記録を残している |
02年の日韓大会でも、“バッジョ待望論”はイタリア全土で、いや、世界中で巻き起こった。
フランチェスコ・トッティとデル・ピエロという2枚看板が存在してもなお、人々はバッジョを求めたのである。
04年4月28日、バッジョの代表ラストゲームとなったスペイン戦。ジョヴァンニ・トラパットーニ監督にとっては、長年の彼の貢献を称える意味での招集だったのだろう。それでもバッジョは、「呼ばれればEURO2004に出場する」と語った。ファンはそれが実現することを願うと同時に、その可能性がないことを悟っていた。スタディオ・ルイージ・フェラーリスを埋めたファンがバッジョに贈ったスタンディングオベーションは、いつまでも終わらなかった。
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