LAZIO

栄光の歴史

ミランの設立者の一人であるキルピン
(肖像画)
1) イタリア・サッカー創始期である20世紀初頭、ミランは3度スクデットに輝いている(1901年、1906年、1907年)。当時は、年間リーグ形式ではなく、週末だけの数日間でスクデットを決めていた。当時のライバルチームは、ジェノア、ユヴェントス、そしてプロ・ヴェリチェッリ(現在セリエC2)だった。インテルの姿はまだない。インテルは、ミランのフロントに反発し、離反した人々によって1908年に旗揚げされた“落とし子”クラブなのである。ミランの中枢は、イギリス人で占められていた。設立者の一人でもあるキルピンが、選手としてチームの主力でもあった。この時期、イタリア人ミラニスタとして最も優れ、有名だったのは、レンゾ・デ・ヴェッキだが、彼のデビューは1909年まで待たねばならない。そして、皮肉なことに、彼の登場を境にミランは長い無冠時代へと突入するのである。

2) ロッソネーリが再びスクデットを手にするのは、第一期黄金時代から44年後の1951年。グレン、ノルダール、リードホルムのスウェーデン・トリオに率いられた有名な“グレ・ノ・リ時代”である。特に、ノルダールは、5度の得点王に輝いたパワフルなセンターフォワードであった。

一時代を築いたグレン(上段、左から3人目)、リードホルム(上段、左から4人目)、ノルダール(下段、左から2人目)たち

1955年には、すでに移籍してしまった“教授”ことグレン抜きでもセリエAの頂点に立つ。この時期、会長はトラバットーニからリッツォーリへと変わったが、チームはコンスタントにタイトルを獲っていった。まず、1957、59、62年にスクデット、そして63年にはイタリアのクラブチームとして初めてチャンピオンズ・カップで優勝するという快挙を成し遂げる。

16歳でデビューしてから20年間、ミランに数々の栄光をもたらしたジャンニ・リヴェーラ
この時代のエースは、何といってもジャンニ・リヴェーラだ。多くのファンが、イタリア・サッカー史上最高の選手に挙げる大選手である。アレッサンドリアで生まれ育ったリヴェーラは、ミランの選手として16歳でセリエAデビュー。その後、36歳でそのキャリアを閉じるまで、彼がユニフォームの色を変えることは一度もなかった。

3) シルヴィオ・ベルルスコーニがミランのオーナーになったのは、1986年2月のこと。その2年後の88年にはセリエAで、そして3年後の89年にはチャンピオンズ・カップで優勝に輝き、ミランは名門復活を高らかに告げたのである。90年代に入っても、92、93、94、96、99年にスクデット、90、94年にチャンピオンズ・カップを手にしている。ジャンニ・リヴェーラ時代に勝ち獲った2回の優勝(63、69年)を加え、5度にもわたってヨーロッパの頂点を極めたイタリアのクラブはミランだけである。ベルルスコーニ体制は、たったの15年間でそれ以前のミランが獲得したタイトルと同じだけの栄冠をものにした。つまり、同会長とともに一つの時代が築かれた、と言っていいだろう。この時代を代表するファン・バステン、フリット、パパン、ウェアといった選手はみな、バロン・ドールを受賞した世界的大選手ばかりだ。

そして、現在はシェフチェンコが彼らに負けない存在感を見せつけている。

絶大な人気を誇ったオランダ・トリオ
(左から、ライカールト、フリット、ファン・バステン)

屈辱の歴史

1) 3度目(1907年)と4度目(1951年)のスクデットの間には、44年間ものブランクがある。2つの世界大戦と、それに挟まれた30年代を席巻したユヴェントス(セリエA5連覇)の陰に隠れたミランの無冠時代だ。40年代に入ると、ユヴェントスと同じ町に本拠地を置くクラブ、トリノが、さらにミランの存在感を薄くする。“グランデ・トリノ”(偉大なるトリノ)と称賛された無敵軍団を前に、ロッソネーラは4シーズンにわたって2位、3位(2回)、4位と、どうしても彼らの牙城を崩すことができなかったのだ。1949年5月4日、“スペルガの悲劇”として今も語り継がれる飛行機事故で、トリノの選手が全員命を落とした翌シーズンも、ミランはユヴェントスに次ぐ2位の座に甘んじている。

2) 再度頂点を目指すためには、ゼロからの立て直しが必要、と人は言う。しかし、ベルルスコーニのミランが再起するためには、ゼロどころかマイナスからスタートを切らなければならなかった。1979年、10度目のスクデットを獲得したのも束の間、ロッソネーリは2度にわたるセリエB降格の苦汁を飲まされるのである。

まず1980年の降格は、リーグを3位で終えながら、八百長疑惑のスキャンダルによるペナルティーにより、セリエB降格。2度目の1982年は明らかにセリエAで戦う準備不足によるものだった。戦力は“年寄り”とやる気のない“腑抜け”ばかりだったし、フロントは私利私欲ばかり求める“たぬき”だらけだった。

しかし、2度ともにセリエBで1位になり、すぐさまAに復帰する貫禄だけは見せている。2度目の昇格の時、会長の椅子にはパオロ・ロッシのいたヴィチェンツァで名を馳せた、ジュゼッペ・ファリーナが座っていたのだが、ミランでは経営危機をさらに悪化させただけだった。
 
ROMA

栄光の歴史

1) 1950年代に2シーズン連続でスクデットを獲得した。当時、インテルはすでにイタリアサッカーを代表するチームだったが、タイトルとは縁遠い状態であった。とにかく、好不調の波が大きすぎたのだ。しかし、そんなインテルにも大きな転換期が訪れた。マッセローニ会長がアルフレード・フォーニを監督に据えた時、インテルに安定がもたらされたのである。フォーニは現役時代をユヴェントスで過ごしている。W杯の優勝とオリンピックの金メダルを手にしている男、いわば、勝ち方を知っている男であった。フォーニは選手に実利的サッカーを要求した。スペクタクルな攻撃的サッカーを放棄し、手堅く守って勝ち点を積み重ねるという方法論をインテルに用いたのだ。52−53シーズン、インテルは見事にスクデットを手にした。このシーズン、インテルの総得点はわずか46で、2位のユヴェントスの73ゴール、3位のミランの64ゴールにはるかに劣るものであった。だが、インテルはスクデットを手にした。インテルの総失点は24、いかにインテルが守りに徹したかということが表れている。このインテルのスクデットに、評論家たちは痛烈な批判を浴びせた。「単にツイていただけさ」とインテルの“つまらないサッカー”をけなしたのである。しかし、“ツキ”だけで2連覇はできない。翌シーズンのインテルのゴール数は倍増した。フォーニは常に攻守のバランスに気を配り、ユーヴェを制し、スクデットを獲得したのである。インテルの2年連続のスクデットの主役はFWのロレンツィとニェルス、プレーメイカーのスコグルント、さらにGKのゲッツィであった。

 
フォーニの“実利的サッカー”を受け入れた、カルロ・マッセローニ会長   インテルに初のスクデットをもたらしたアルフレード・フォーニ監督

2) イタリアサッカー史で“グランデ”(偉大なる)という形容詞が用いられるチームは2つしかない。一つはスクデット5連覇を達成したが、スペルガの悲劇で藻屑と消えた“グランデ・トリノ”。そして、もう一つが、アンジェロ・モラッティ会長、エレーニオ・エレーラ監督、イタロ・アッローディGMの下で躍動した60年代の“グランデ・インテル”である。エレーラ指揮の下、アルマンド・ピッキが、ルイス・スアレスが、マリオ・コルソが、サンドロ・マッツォーラが、ジャイールが、そしてジャチント・ファッケッティが走り回ったあのインテル。1962年から1967年の5年間で世界のタイトルを総ナメしたあのインテルである。スクデットを3回獲得(プラス、カルチョの歴史上たった1回行われているプレーオフでボローニャに敗れスクデットを逸している)、2年連続のチャンピオンズ・カップ制覇(もう1度決勝に進出しているが、その時はセルティックに敗れている)、2年連続のインターコンチネンタルカップ制覇。インテルはまさに“カルチョの伝説”になったのだ。

1962年から67年までの5年間で、スクデット3回、チャンピオンズ・カップ2回、インターコンチネンタルカップ2回という成績をもたらした、エレーニオ・エレーラ監督)

3) サッキのミラン革命が始まった頃、ナポリにはマラドーナがいた。そして、サンプドリアも全盛を極めていた時代であった。その頃、インテルは輝きを失っているように見えた。だが、インテルは適任の監督を見出すと同時にパワーを取り戻した。ジョヴァンニ・トラパットーニの指揮の下、強豪をなぎ倒し、人々の心に深く刻まれるようなスクデットを手にしたのである。88−89シーズン、インテルは13度目のスクデットを圧倒的な強さでものにした。総勝ち点58は“勝ち点2点制度”下での新記録であった。ゴールマウスにゼンガ、DFラインは当時絶頂期にあったベルゴミとフェーリ、左サイドにはブレーメ(ドイツ)、そして、中盤にはゲルマン魂の権化マテウスと“突撃兵”ニコーラ・ベルティがいた。さらに2トップの破壊力も群を抜いていた。空中戦に強いアルド・セレーナ、テクニックと俊敏さが売り物のラモン・ディアス(アルゼンチン)……このシーズンのインテルは攻守にバランスの取れたチームであった。だが、インテルの栄光はたった1年間しか続かなかった。それ以来、スクデットの美酒を味わっていないのである。チームフロントがしっかりしていれば(当時の会長はエルネスト・ペッレグリーニ)、おそらく、インテルの“長期黄金時代”が形成されていたはずである。

屈辱の歴史

“グランデ・インテル”の一員、サンドロ・マッツォーラ
1) インテルは成績が伴わない時であっても、常に、ファンタジーアのあるチーム、プレーの予測ができないチームになろうと努力してきた。だが、成績も悪く、プレー内容も悪いという時期もあった。代表的な例は、75年から77年までの2シーズンである。チャッペッラ監督の下、インテルは2シーズン連続で4位に終わっている。「4位ならいいじゃないか」と思うかもしれない。だが、“グランデ・インテル”として世界を制覇した直後の4位である。インテリスタにとっては屈辱の2シーズンであった。当時の会長フライッツォーリはカルチョメルカートにつぎ込む資金を失ってしまっていた。“グランデ・インテル“の後遺症は資金不足という形で表れていたのだ。2年間、インテルはヨーロッパの舞台でも輝くことができなかった。唯一の救いは77年7月3日、コッパ・イタリアの決勝に進出し、ミランと戦ったことぐらい。もっとも、この決勝戦でもミランの前に苦汁をなめている。ちなみに、この試合がサンドロ・マッツォーラ現役最後のゲームとなった。まさしく、“グランデ・インテル”の終末とも言えるゲームであったのだ。

2) 監督の首のすげ替えはインテルにとっては日常茶飯事。長期政権と言えるのはエレーニオ・エレーラの8年間をはじめとして、トラパットーニ、ベルセッリーニの5年間ぐらいのもの。短期政権の典型は98−99シーズン。マッシモ・モラッティ会長は1シーズンで何と4人を監督の座に据えたのだ。シーズンスタート時はシモーニ、続いてルチェスク、さらにカステッリーニ、そして最後はホジソン……そのシーズン、ピッチ上にはロナウドがいた。ロベルト・バッジョもいた。だが、組織が存在しない場所ではカンピオーネもカンピオーネとしての能力を発揮できない。かくして、インテルは8位という屈辱の成績でリーグ戦を終えたのである。
真っ暗闇のシーズンの中で、唯一の光はチャンピオンズリーグのレアル・マドリー戦であった。ロベルト・バッジョのファインゴールでレアルを下した瞬間、インテリスタはそのシーズン、最初で最後の幸福感を味わったのだ。
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